OPIORPHIN
光子郎 と ミミ
1
「そいつとのメール楽しい?」
マイケルは皮肉のつもりで訊いたはずだった。
「もちろん」
しかし彼女はマイケルの方を見もせずに(いつもの微笑みすらなく!)モニターに掛かりっきりで意にも介さない。
「なんていったっけ、あの、背の低い赤毛の彼」
背の低い、という形容詞にやっと彼女はマイケルの方を向いて言った。
「私のこーしろーくんよ」
その目が少しむくれている様でマイケルは少々怯んだが、それをスマートに切り抜けられる程度に彼は大人だった。
「そうそう、その“ミミのコーシロ”。なんてラブレターを寄越した?」
「ラブレターじゃなくて明日の同窓会の連絡。マイケルはこの連休に旅行行くんでしょ?写真撮ってきたら見せっこしよーね。」
ウインクも器用に決めて彼女はまたデスクトップの液晶モニターに向かった。
マイケルは本来なら真っ先に彼女を誘い、いつもの仲良しグループでバーベキューなどを楽しむ予定にしていたのだが、その前にメールの話を切り出され、結局言えずじまいだった。
メールとはつまり、チビで赤毛の“ミミのコーシロ”から送られてきた、面白みのない業務連絡のようなメール。天気とニュースと勉強とパソコンの話しか書いてない学級日誌みたいな素っ気無くてつまんない内容。
彼女は時々それをマイケルに見せこれが彼女に送るメールに見える?と、こちらがフォローに回らざるを得ないほど散々に扱き下ろすくせ、三日くらい経つともう返事を出している。……返事は一度も見せてくれないけれど。
「ばかばかしいほど日本に帰るんだね。まるで家と学校を往復するみたいに」
「ええそうよ」
「いつまで続くのかな」
さもわざとらしくため息をついて、マイケルはライブラリのソファから立ち上がる。
「……えらく突っかかるじゃない」
「恋敵だからね」
肩にブックバンドで縛った教科書を引っ掛け、マイケルは振り返りもせずそれだけ言い捨てて図書室を出て行った。
「――――――――よく言うわね、popular boy」
彼女は小さくため息ひとつ付いただけで、また文法と表現にうるさい彼氏にメールを打ち始めた。
2
彼がそこに戻ったのはもう6時も過ぎた頃だった。明日の旅行のスケジュールを立てながら談笑していたせいで、すっかり辺りはオレンジ色に染まっている。
戻ってきたのには訳がある。図書室のペーパーバックの中に明日行く行楽地の地図や案内が載っていることを司書が教えてくれたのをこれ幸いと、初めて向かう土地に不安を抱いていた仲間の一人がリーダーが取りに行くべきだと囃し立てたおかげでマイケルは一人図書室に舞い戻ったというわけだ。
「……あきれた」
あれからもう2時間半は経っている。なのに彼女は悠々とまだそこに座っていた。
「ミミ、そんなに長いラブレターじゃ読むのに一週間も掛かっ……」
椅子の背もたれに手を掛けて振り向かせようとしたマイケルの手に力が篭ることはついになかった。
ピンクにしたら彼氏に叱られたと染め直した茶色の髪。手入れが行き届いているのだろう、夕日に照らされて艶やかに輝くその髪は、くすんだ金髪のうちのママならきっと家中のドレスと交換にしたって欲しがるに違いない。マイケルはぼんやりとんちんかんで取り止めもないことを考えた。
「……この髪もコーシロのものか」
まともな思考を頭から掃ってでも口に出したくないはずの言葉が零れる。
“コーシロのミミ”。
「服も褒めない、髪も褒めない、アクセサリや笑顔すら褒めない。
お前のために彼女が選んで、お前を喜ばせるために日本へ行くのに」
苛立たしい、とマイケルは思った。彼女はまっすぐお前を見ているのに、何故お前はそれに答えない。
「僕ならシャイな彼女が僕に飛びつくまで褒める。褒めて褒めて、僕の嬉しい気持ちの100分の1でも伝えるぞ、チビ助」
惨めだ。まるっきり道化師だ。いつもの彼女の笑顔じゃない。メールを書いているミミは“コーシロのミミ”になっている。寂しそうで恥ずかしそうで少し怖くてちょっと可愛い、百面相。そこに自分は居られない。
「――――――――こういうの、ムカつく、っていうんだっけ?日本語で」
ディスプレイにはマイケルの読めない漢字がたくさんの文章が長々と表示されている。
彼女の長い髪を少し持ち上げてマイケルは首筋にキスをした。髪を同じように持ち上げないと見えない場所に。
「明日には消える、ミミ」
そっと髪を元に戻して自分のカーディガンを彼女の肩に掛け、バックナンバーは無かったと言い訳しよう、そう思ってマイケルはそのまま図書室を後にした。
「僕は彼ときみが喧嘩すればいいと思ってるのかな、それとも何事も無くきみが帰ってくればいいと思ってるのか」
どっちでもいい、と“popular boy”は独り言を締めくくった。
3
その日は雨が降っていた。
「おねーさまー!会いたかったー!」
「みーやーこーちゃーん!」
呆れ顔のその他大勢を放ったらかしで、高テンションシスターズが勢い抱きつき再会を喜ぶ。
「この天気になんつー元気……」
大輔は出遅れて感情の持って行き場を失い、バス停の前で一人ぶーたれる。
「まぁ確かにこの湿度であの元気は凄いわよね」
フォローのような、そうでないような、曖昧な合いの手を入れたヒカリはなんとも言えない表情で笑った。
「いつもなら晴れなのにね、8月1日」
「こんな日もあるさ」
空はおかしな方向に話が転がらないように雰囲気を修正し、ヤマトがそれを補強した。それを黙って見ている太一は誰にも気付かせないようにため息を吐き、さっと表情を立て直す。
「さ、感動の再会は後々!ぱーっとやるぞ!」
太一の声にそれまでざわめいていた全員が拳を突き上げる。
『おー!』
うろたえるミミと光子郎を除いて。
「えっ?ちょっ……なに?なにが始まるの?」
きょろきょろと辺りを見回すミミの様子にいち早く気付いた丈が当たり前のことを訊ねるようにミミに言う。
「あれっ聞いてない?今年はあの例のキャンプ場で一泊するんだよ。みんな大荷物だろ」
あの日のトレードマーク、青いスポーツバッグをポンポンと叩きながら丈が椅子から立ち上がった。
「えええええー!?き、聞いてないわよ!!あたし、明日帰らなきゃいけないのに!!」
座ったまま取り乱すミミを尻目に、またまた、と言いたげな顔でタケルが笑った。
「光子郎さんがそんな大事なこと言い忘れるなんて。騙されませんよミミさん」
「もう半年も前から決まってたんです、光子郎さんがそんなミスをするわけがありません」
伊織も黄色いリックサックを背負い込みながら、まるで信じていない。
ただ京が一人引きつり笑いをしている。
「……京さんから連絡行ってますよね……?」
賢に尋ねられた固まったまま動かない光子郎がようやく解凍され、まだ痺れの収まらぬ舌を無理やりに動かして答える。
「……言い忘れてます、カンペキに……」
4
「ひっどーいホントに置いてけ堀なワケー!?せっかく帰ってきたのにーッ」
皆が済まなさそうにバスに乗り込みながら、それでもすでに心はキャンプ場、というなんともいえない表情で窓から手を振る。ミミはそれに抗議の声を上げながらも、絶対にいっぱい写真取ってきてよね!と注文を忘れない。
「この恨みは忘れませんよ京くん、精々楽しんできてください」
こめかみに青筋を立てながら光子郎が、最後まで説教を食らってた京に追い討ちをかける。
京は振り返ることもなく、ただ一度バスのステップに足を掛けたまま止まり、低い声で言った。
「イーじゃないですか泉先パ〜イ。恋人との時間が増えたと思えば〜」
はっと光子郎が京をもう一度見たときにはすでにバスのドアは閉まっていた。
「それじゃミミさん光子郎さんいってきまーす!」
「土産ちゃんと買ってくっから心配すんなよ光子郎〜ミミちゃんあとよろしく〜」
現サッカー部キャプテンと元サッカー部キャプテンが気楽に手を振って、バスが動き出した。
「あんまりだわー!あんまりだわー!あんたたち覚えてなさいよーッ!」
停留所で地団太を踏んだミミがバスの陰が消え去った頃、ハァとため息をついて光子郎を振り返った。
「こーなったらこっちはこっちで楽しんでやるんだから!ねぇこーしろーくん!」
光子郎の黄色い傘を雨が叩いている。光子郎は特別な表情もなく、ただぼんやりとバスの行ってしまった道の向こうを見ていた。
「どうしたのよ」
訊ねる耳の声にも反応はなく、腹立ちの収まらないミミは光子郎の視線を阻むように立ちふさがった。
「ちょっと!きーてんの!?」
「えぇぁっ!?は、はい、聞いてます、聞いてます」
「ゼーッタイ!みんながうらやましがる様なことして遊ぶのよ!」
「あ、はい。でもこの天気ですしね、明日帰るんでしょう。何して遊びましょうか」
よそ行きの顔、余所余所しい声、心ここに在らずの光子郎。
「光子郎くん」
ミミはトーンを落とし、キッチリと正しい発音で光子郎を呼んだ。
「なんですか」
いつもの彼ならその不自然に気付いただろう。が、今の彼はそれに気を回せるほど精神的余裕が無かった。
「腹が立たないの」
「立たないわけじゃないですがもう済んじゃった事だし、しょーがないです」
「しょうがない。そうね、仕方ないわ。で、京ちゃんに何を言われたの」
5
お気楽で純真で享楽主義のミミだが、決して彼女はバカではない。我がままで周りを困らせる事はあっても、迷惑は掛けないように本人が気を使っているのは、側に居れば小学2年生でも気付く。
「な、なんですか急に」
「このおっきな目は節穴じゃないのよ」
「あのー、話が飛躍しすぎて理解できな――――」
そして、苦笑いと後ずさりで誤魔化そうとする光子郎の逃げる場所に先回りする程度に要領がいい。
「……ついさっきまであたしと同じように怒ってたわ。置いてけ堀食って腹立ててたの。
それがバスのドアが閉まってから急に無口よね。どうして突然怒りが収まったのかしら?」
「それと京くんに何の関係が」
「……京ちゃんがバスに乗るの最後だったわ。それまで光子郎くんはいつも通りだったはず。で、バスが行って光子郎くんがヘン。素直に考えれば京ちゃんが原因よね、でもバスに乗った彼女は特に変わりなかった。てことは喧嘩じゃない、ああなんか言われたんだなと考える。この推理おかしい?おかしくないわよね?無理のない推論だと思わない?思うわよ、少なくともあたしはそう思うの」
さらに言えば得意分野を盾に立てこもりがちな恋人の陣地に乗り込んで、彼のルールに従って勝負できるくらい気風もあった。
あんぐりと口をあけ、一旦停止ボタンを押されたように光子郎は彼女の流れるような口上を聞くばかり。
「まだ無駄な白をきるつもり」
じろりと光子郎を睨め上げるその表情には、恨みがましさは見当たらない。
「何を言われたの」
勘繰って無理やりにその表情に名を付けるとするならば、二律背反。アンビバレンツ。
「――――――くだらないことです。
ミミさんとの時間が増えてよかったじゃないかとね、言われただけで」
かしかしと掻く後ろ頭に回された手の動きにつられて、黄色い傘がユラユラと大きく二三度揺れた。その度にパラパラ落ちる雨音が少し乾いて変化する。
「たったそれだけでションボリなんて光子郎くんらしくないわ。他に何かあるんでしょ」
光子郎は特に勘が鋭いという方ではない。人並みに感付き、人並みに鈍い。だからこそ通常は呆れるほど鈍いくせに、時に超常現象並みの勘を発揮するミミの恐ろしさに降参したのだろう。
「……アメリカ行くとそんなに勘が鋭くなるもんなんですか」
「女って怖いってパパがいつか言ってたわ。仕草一つで隠し事がばれるって。
でも簡単なの、パパ何かやましい事があるとそわそわするの。そんでママやあたしの顔色を窺うのよ。
光子郎くんはね、俯いて深呼吸する。それから空っぽの顔で上手に笑うわ」
心臓がどうにかなったのかと思うほど彼の大きく脈打った。思わず会ったこともない彼女の父に“精神感応者を家族に持つとはさぞご苦労の多いことでしょう”と、とぼけた遺憾を表明するほど。
6
「…………別に言いたくなきゃ訊かないわ。
ええそうよ、いくら恋人でもプライバシーは尊重しなきゃね。コンフィデンスを侵害する気はないわ、だってあたしは他人のシークレットを暴くような恥知らずじゃないもの、ねぇそうでしょう光子郎くん。あなたの好きな子はそんな浅ましいビッチじゃなかったはずだわ」
何度も何度も同じ意味を重ねる彼女。うんざりするトートロジー。まるで追い込むような。
「……常々自分を素直じゃない部類の人間だと自覚はしてたけど、ミミさんも相当……」
まだ雨は降っている。傘に振り落ちる雨粒の強さは変わらない。
「お生憎様、あたしはいつも素直よ。誰かさんと違って自分の欲しいものくらい解ってる」
きらきら光る目。睨み上げるような挑戦的な表情……だというのに、イライラした顔に今にも零れそうな水溜りを目尻に作って、ミミはトゲトゲしい台詞を吐いていた。
「ヤキモチはもっと解りやすく焼いてください、焦げるとおいしくない」
「上手くあしらわないで!はぐらかすつもり!」
こうなってくると手におえない。なのに彼女のテンションは天井知らずだ。
「あたしは怒ってるんじゃないのよ、ただモーレツに悲しいだけなの。
あたしに話せないのならもっと上手に隠しなさいよ、それがエチケットってもんじゃない?
ええそうよヤキモチ焼いてるわ、悪い?だってあたしこーしろーくんのこと好きなんだもの。好きな人が自分に自分とは別の女の子と隠し事してたら、しかもそれを知っちゃったら悲しくなるの」
それが女の子ってものよ。突き放した結び言葉にさえ刺が見る。
眉間に皺が出来てないだろうか。溜息が出るのさえ押え切れない。光子郎だって置いてけ堀を食った上に鉛の台詞を投げ掛けられ、追い打ちとばかりにミミからの叱責まで受けてはたまらない。
「道端で喚かないで下さいよ、みっともない」
「みっともないですって!」
「ほらまた大声……」
目尻がぐっと釣りあがったミミの青筋が見えるようだ、と彼は思った。静かに落ち込む事も許されないのか。そんな悠長な苦笑いを噛み殺している暇などもちろん与えられるべくも無い。
「そうね!いっつもあたしばっかりエキサイトしててごめんね!」
ついにミミは一人で歩き出してしまった。どこへ?そんなこと光子郎が知るわけがない。そして多分、ミミ本人にさえそれは当てはまるだろう。なのに、光子郎は間抜けにも訊ねてしまった。
「ど、どこへ……」
「知らないわよ!」
こういう時、光子郎は勇ましい彼女の背を見て歩くしかない事を知っている。隣に並べば怒るし、ついて行かなきゃもっと怒るんだから。
雨はまだ降っていて、二本の傘がぱさぱさ鳴り続けている。
7
雨の海浜公園というやつは、とても物悲しいなぁと光子郎は思う。ミミのワインレッドのストライプが入った派手なクリーム色の傘を見てもそう感じる。ふと振り返ったミミと少しだけ目が合った。彼女がこの黄色の傘を見てもそう思うのだろうか、と己が傘を見ると、薄い黄緑の流線が意匠として入っているのを見つけて、コレも意外に派手だなぁと呟いた。
ミミはぼんやり雨に曇る海の向こうに視線をやりながら、あたしなんであんなに腹立ててたんだっけ?と謎めく自分の感情を不思議に思っていた。それから、いつもだったら何か話し掛けてくれるのになぁ、怒っちゃったかなぁ、とそろそろ不安になっている。
二人は5メートルくらい離れて、傘の柄を頼りにするように雨の中に立っていて、ミミはぼんやり海の向こうを、光子郎はぼんやりミミの傘の柄を見ていた。
本当は5分位だったような気もするし、2週間くらいそこにそうしていた様な気もする。
でも随分そこに居るような感じは錯覚ではなく、ミミのショートブーツはぐっしょり濡れていたし、光子郎のズック靴に到っては水溜りの中に突っ込んだかのようになっていた。
「こーしろーくん」
「はい」
「……帰ろっか」
ミミがそう言うや否や、傘を畳んで光子郎の傘を取り上げた。どうやら相合傘をやるつもりらしい。
「もう持ってもらわなくても」
光子郎がそう言って、黄色の傘を取り返す。
「頭、つっかえませんよ」
ほらね、と光子郎が誇らしげに傘をミミに捧げて持った。なるほど、ヒールのあるブーツを履いているミミの髪形を阻害しないであまる高さに傘がある。ミミは少しだけ感心してにやっと笑った。
「少し前なら京ちゃんにも追い抜かされかねなかったもんね」
言ってしばらく返事が無かったあたりで、ミミはしまったと思った。なんでわざわざここで京ちゃんの名前を出すかなアタシ。
「……………………」
案の定、少し持ち直したかに見えた光子郎の表情は元の薄暗くぼんやりしたものに戻っている。
「い、いや、あの」
「ミミさん」
「……はい……」
「そのヤキモチの焼き方ちょっと怖い」
「……ごもっとも……」
「何がそんなに気に食わないんですか。」
「……訊かれても困るわよ。あたしだってわかんないもん」
8
「僕が浮気してるとでも言うんですか。まあ百歩譲ってそういう無駄で無根拠な想像を許可しましょう。
何故相手が京くんなんですかね。僕なんかしましたか?彼女に不必要に近付いた事なんか賭けてもいいですが、絶対にありませんよ。」
百万が一にも僕にその気があったところで、一乗寺くんが許す訳ないでしょうが。……という台詞は、なんだか取り返しのつかない齟齬が発生するような気がして、光子郎は寸での所で飲み込んだ。
「だーかーらー!根拠とかそーゆーロジックじゃないんだってば!
わかんないの!わかんないけど!女の勘なの!なんかこーしろーくん怪しいの!
でも実際は全然怪しくなくて!いつも通りで普通なんだけど!あたしがなんか怪しいって思うから!京ちゃんと喋っててもなんかイライラすんのよーっ!」
キーッと悲鳴を上げて、ミミが地団太を踏んだ。水滴が跳ね上がって、ショートブーツが更に濡れる。
「…………ああ。」
光子郎がポンと手を打つ。
「……なによ」
逆立って振り乱した髪をぐしぐしと抑えながら、ミミが恨めしげに視線を上げた。
「僕が空さんと喋っててもそう思いました?」
「ちょっとはね」
「ヒカリさんとは?」
「……んー、あんまり?」
しばし眉をひそめてミミが答えると、光子郎が声を上げて笑う。
「な……なによっ」
「なんとなく分かりました。」
「……ど、どういうこと?」
「教えません。自分で考えてください」
満足げにそう言って、光子郎は笑い顔のままそれ以上ミミが何を言っても答えなかった。
ミミはミミで、色々質問をするたびに光子郎の顔が緩んだり火照ったりするのを見てるのが楽しくなってきたので、なんだか考えるのも馬鹿馬鹿しくなって追求をやめた。
「こーしろーくんてさ、意地悪いね」
「ミミさんはへそ曲がりですよね」
「根性悪」
「お子様」
「偏屈」
「ガキ」
黄色い傘が揺れながらもやの中を進んでゆく。まだ雨は降っている。
9
『おー、どうした光子郎』
「どうしたじゃありませんよ。あのあとミミさん宥めるのに骨が折れましたよ」
『とか何とか言ってぇ、今隣にいるんじゃねぇのかぁ?』
「……後で太一さん達からもちゃんと謝っといてください。」
『おーう任せとけー。こっちは今やっと雨上がったからなー駐車場で花火してんだ。ヒカリに言ってちゃんと写真撮ってもらってるから楽しみにしてろよ』
「……太一さん、お酒飲んでるでしょ」
『馬鹿言うなよ!俺がそんな……イヒヒヒヒヒ!飲んでねーって!ほんと!』
――――――ダメだ。丈さんや空さんは一体どうしたんだろう?光子郎は鈍い頭痛を感じながらも、二人のしっかり者の名前は口にしなかった。
『そーだ、京ちゃんに替わってやろうか?』
まずい、と思った時には手から携帯電話が飛んでいる。オカルトだ。
「太一さん!そんなにあたし達の仲に波風立たせて面白いの!?」
『……えぇぇ…?…』
そこまで!!
光子郎は思うが否か、気付いた時にはミミの手からむしり取った自分の携帯電話を壁に投げていた。
「きゃーっ電話ーっ!!」
「何てことするんですか!」
「えええー!?アタシのせいなのこれ!?」
ミミが飛びついた携帯電話のそばにへたり込みながら悲鳴を上げる。
「違う!電話取って!太一さん!」
光子郎にしてはオーバーなリアクションでジタバタ喚き、事の重大性をアピールしているらしい。単に泡食ってるだけという説もある。
「……いーじゃん別に。相変わらず細かいこと気にする男ね。――――――それとも、みんなにあたしと一緒に居る事を知られたらなんか不味い事でもあるのかしら」
しれっとミミが唇を尖らせて携帯電話を拾い上げ、ドレッサーに置いた。携帯電話は通電している事を知らせる光もなく、沈黙し続けるばかりだ。
「こんな時間に一緒に居る事が非常識なんです!」
「――――――たまに日本帰ってきたらコレよ。もうちょっとフレキシブルに人生を楽しむように心掛けないと、老けるわよ」
10
「……ねぇ。まだ怒ってんの」
ぶっすーっと膨れた光子郎は返事をしない。
「だからごめんなさいって、謝ってるのに」
ミミがベッドの上に正座して、スツールに腰掛けてそっぽを向いてる光子郎に何度も話し掛ける。
「意外にしつっこいわね」
喧嘩さえ吹っ掛けるような事を言っても、光子郎は膨れっ面をゆがめない。
しかし、ミミのホテルの部屋から出て行こうともしない。
……ったく、いったんへそを曲げると長いんだから……ミミが溜息を飲み込みながらあきれ返った。
「首筋」
「は?」
「キスマークがある」
「……あー?」
光子郎がようやく立ち上がり、ミミの座るベッドの側にやってきた。まるで強迫でも始めるような態度だ。
「京くんがね、そう言うんですよ。ミミさんの左側の首筋にあるって。僕はミミさんを信じてますから虫刺されじゃないですかって言いました。そしたら時間があるんだから問い詰めてみたらどーですかって返事が返ってきて」
光子郎がベッドに膝をかける。ミミはその圧迫感にジリジリと後退するしか術がない。
「明るくて気のいい京くんをそーゆー皮肉めいたことを言う人間にしてしまった自分に腹が立った。素直で可愛い後輩がどんどん捻くれて行く原因たる自分の采配の悪さに絶望してる。
だからミミさんが京くんに嫉妬するのは完全にお門違いだし、もっと言えばその見当外れのジェラシーさえ喜んでる自分のクズぶりに落ち込んでるだけ。」
分かって貰えましたか。もはやヤケクソ気味に光子郎が早口でそんなことを言ってベッドを離れた。
そしてまたスツールに戻る。
「…………つまり、八つ当たりなのね?これ。」
そーです。やや軟化した声が心なしか萎れているような気がした。雨の上がった窓の向こうにあるくすんだ夜景に視線を馳せる光子郎を見ながら、ミミが大きく溜息をつく。
「可愛そうだから慰めてあげようか」
ウフン、思わせ振りな作り物の溜息を光子郎の耳元に投げ掛けたミミが嗤う。
「ミミさんは本当に意地悪ですね」
ムッとしたようで、何処となく寂しそうで、でも一歩も引かない頑固な性格。
「当たり前よ、優しくなんかしてあげない」
11
大きな目は伏せがちで
「キスマークの事実関係を是非確かめたいものです」
赤い髪は湿気を含んでささくれている
「虫刺されよ」
濡れたように光る唇と
「その虫はきっとウェーブの掛かった金髪で背が高くて美男子なんでしょうね」
しわくちゃになったシャツの襟元が
「覚えがないわ」
触れるか触れないかの緊迫した状況。
「そうでしょうとも、眠っていましたからね、虫と」
眉に掛かる髪は視線を遮ってはくれなくて、そっぽを向く事の出来ない顎先は微動だにしなくて、薄暗い部屋に止まった空気と息苦しい熱気、空気清浄機ではかき混ぜられない重苦しい雰囲気。
「信じてくれないの?」
二人はそれをおもちゃにしている。
「堂々とした態度ですね、まるで開き直りだ。困ったな、ちっとも妥協点を探れない」
忍び笑いに隠した嫌味と不安と憐れな虚栄。光子郎は自分というものはよくよく自己嫌悪の種が好きなのだなと飽き飽きする。
「もうたくさん!ウンザリするわ、嫉妬深くてイヤになっちゃう!何を白状すればいいの?何もいう事なんてないのに!……なんて風に怒ってほしいの?だったら残念、ミミはもう小学生の女の子じゃないもの」
それをミミが目ざとく見つけては時に拾い、時に踏みつけ、或いは飲み込んでしまう。ミミ自身、よくもまあこんな面倒臭い作業に慣れる事ができたものだと自分自身に感心した。
「――――――怖い。」
独白ともただ漏れたとも付かぬ言葉を受け、ミミが失笑する。
「お互い様」
弱々しいオレンジ色の電気の光、止まった空気、二人分の鼓動(自分のほうが少し早い気がする)、閉じられない目、懐かしい香り、蕩けそうな体温、いつもの肌触り。
呼吸を整えて、目を閉じ、頭の中をリセットにして、さぁ口に出せ。自己完結で終ってはいけない。苦しむ道に互いを引き込む道理などないはずだ。逃げてはならない、有耶無耶にしてはいけない。問題を明らかにし、必要ならば速やかに謝罪すべきである。
光子郎はそこまで考えてムッとした。
……謝罪?…………誰が誰に。
12
黙っている。天井を見上げている。覆い被さるのはいつも私の方だな、とミミは声に出さず念じていた。喧嘩はともかく、臍を曲げた彼を諌めるには自分が謝ったり透かしたり、とにかくご機嫌を伺っているような気がする。
事実は恐らく半々、もしくは光子郎が妥協案を提示する方が若干ほど多いのだろうが、彼女の問題にしたいのはその強度である。下らない意見の行き違いや然程重要でない主張などは、ほぼ確実に毎回光子郎が折れた。
例えばモスバーガーのライスバーガーと普通のハンバーガーのどっちが美味しいかとか、映画で一番注目すべきは技術かストーリーか?とか、キスをする前にスカートの中に手を突っ込むなとか、そういう類の諍いはスグに解決する。
けれど、こと自分の意思が封殺されるようなこと、例えば嫉妬とか寂しさとか滅多に無いけど自慢とか、そういうことが無視されたと彼が感じる時、ミミが戦慄に似た感情を覚えるほどに光子郎は激昂、または解決に執着する。
『つまりまあ、外面ほど大人じゃないのよねこのヒト』
黙っている。布団と自分の身体に伏している。簡単だからこうしている訳じゃない、と光子郎は言い訳がましい頭の中に眉を顰めている。喧嘩はともかく、議論になると彼女の精神論と焦点の飛躍が少々鬱陶しい。
事実は恐らく彼が議論と思っている事柄の大方は単なる意地の張り合いで、だがそれを受け入れてしまっては彼にはもはや自己証明の術がなくなってしまう。なあなあでやっていくには几帳面すぎるのだろう。
自分の意見や主張を感情や流れではなく、理路整然とした理論と理由で理解させたいと彼は思う。なんとなく、でなく少しでも長く続く明確な公式として意見を共有する事が相互理解、つまり解り合うことだと信じているから。
自分がどう考え、相手がどう思ったのかを解き明かし、出来ればそれを平均化して互いが持つ。それこそが重要な事だと思う。齟齬や思い違いが少なければ少ないほど、問題点は生まれにくくなる。
『彼女には隙が多いんだよな、鈍感っていうか』
「こーしろーくん」
ミミが口火を切った。
「あたしは嫉妬はするけど浮気はしないし、こーしろーくんの性格に腹は立てるけどキライになったりはしないわ、多分。あ、この多分ってのは未来はどうなるかわからないって意味じゃなくて、推定ね」
それを受けた光子郎は、しばらく自分の文章を推敲してから口を開く。いつも通りに。
「僕は詮索はするけど頭から決め付けたりはしないし、ミミさんの言葉を全部真に受けたりはしませんが出来る限り善処はします。ただし安心してもらっては困ります。努力は双方向でないと意味がないですから」
「つまりまだ納得してないぞってことね、それ」
「そっちこそ不確定要素をちらつかせてます」
「あたし泉くんのこと嫌いだわ」
「僕は太刀川さんのこと信用してません」
「……よくも……言ったわね……!」
「――――――お互い様じゃないか。」
13
睨み合い、誹りあう、いがみ合いというものに彼らは縁遠い。なぜなら彼女達はそれが最も嫌いだから。
泡のように次々浮かぶ罵りの言葉と上げ連ねれば限りない相手の欠点、それから自尊心。
鉛の感情はべったりと絡み合っていた彼と彼女の身体を容易に引き剥がして振り回す。紅潮した二人の頬がそれぞれ天井と床に向かって汚い中傷を吐き出そうと待ち構えている。
「嫌い!今あたし自分のこと大っ嫌い!」
先に叫んだのはやはりミミだった。
「言いたいこと言ってるはずなのにちっともいい気分じゃないもの!すっきりしない!どんどん嫌な気分が溜まって…!…本当に言いたい事じゃないことをわめいてるだけ……出てこない、一番言いたい言葉が自分でも解らないの……」
潤んだ瞳が零れたのかと錯覚する。目に溜めた雫が滴り落ちて、半分閉じかけていた瞼が持ち上がったように、ビリビリ帯電していた光子郎の頭が痺れから解放されたような気がした。はっと息を呑む。
「でも謝ったりするのは違う気がする。だってあたし悪くないもん。こーしろーくん以外に身体触らせないもん。なんで信じてくれないの?なんで疑うの?なんで許してくれないのよ!?
あたし……あたしだって会えなくて寂しいのに……いっつも自分一人だけ可哀想な振りして……
でも!これがわがままだって!もう解るのよ!ミミちゃんもう小学生じゃないもの!
でもどうしたらいいのか分からない!うまく説明できない!上手に話せない!
あたし光子郎君のこと好きなの!でもほんとは嫌いかもしれない!あたしのこと嫌いな光子郎君は嫌い!でも嫌いたくないし!嫌って欲しくないの!でもそんな事考える自分が卑怯でイヤなの!」
後半は泣きながらグズグズに崩れた言葉で、それでも必死にミミがいつも大事に手入れしている髪のほつれさえ気にも留めず振り乱し、続ける。一番伝えるべき胸のうちを捜して。
「あたしのこと許して……!」
急いて渋滞を起こすセリフを取り違えた、とミミは焦った果てに出た単語を頭の隅で呻き悔いた。許して欲しいのは首筋の跡でなく……
「許してって、覚えてない事をですか。それとも、嘘をついたこと?」
案の定だ。
「――――――――――――ちっとも解ってない」
絶望的。
「解ってますよ。」
半笑いの声。
「解ってないわよ!」
癪に障る。
「解ってる」
言い切る無知。
「じゃあ全部間違ってるわ!」
14
ずるいでしょう、と光子郎は大の字のままの手足を微動だにさせず舌を出した。僕はずるいでしょうと、無能や無体をひけらかさんばかりに笑う。
組み伏せて蹂躙するのは楽しい。表情も見せず、言葉も掛けず、力任せに押し付けて自由を奪うのは何とも言えぬ胸のすく思いと目も眩むような多幸感で満たされる。
彼は自分の手の平の上で慌てふためく彼女を見るのは堪らなく気分が高ぶった。充実のリアリティは現実を蝕み、言葉を曇らせている事も知らず。
「嬉しい」
「……はぁ?」
「あなたの怒ったり泣いたりする顔、素敵です」
その日、彼女ははじめて暴力衝動と言うものを理解することになる。感情が目や口でなく全身から吹き上げた刹那のことだ。
手が熱く、痒く、痛い。ビリビリ振動している。息が乱れて視界が歪んでいた。
「あ……あたし……こんな腹立たしいの、は、は、はじめて……ッ!
イライラ……ムカムカする。あたしのこと馬鹿にしてるの?それとも、遊んでるの?心外だわ!ファックよ!
あたしが頭に血が上ってるのを眺めて喜んでるってわけ?……ふざけないでっ!」
彼女の振り抜いた左手が真っ赤に染まって、彼の打たれた右頬は夕焼けほども色づき、痛々しい。
「……ぼくは、ただ……」
「ただ?なによ?全部わかってるんでしょ!?じゃあいいわよそれで!頭の中で全部解決しちゃいなさいよ!
だったらもうあたし要らないわよね!一人で全部出来るんだったらミミなんかいらないんじゃん!」
荒れ乱れる彼女の動揺の幾ばくかを光子郎が推測でき、身体をようやく起こした頃、ミミは既に議論も対話も出来ない状態だった。
「ちょ、ちょっと待って」
「待つ?いいわよ待ってあげる!でもいくら待ってもどうせ無駄!どこまで行っても平行線よ!何をどうしたって結局同じ生き埋めだわ!
いつもそう!あの冒険の時だってそうだった、何度言っても何度話しても何度でも綺麗サッパリ忘れちゃうのよ!」
「お、落ち着いて下さ」
片肘を半分突きながら片手で広げ、ちょっと待ったの格好をする光子郎の格好はすこぶるマヌケだったのに、ミミはそれを意に介そうともしない。もはや何も見えていないのは明白だ。
「あたしばっかり必死で嫌になっちゃう!いつもそう!ホントは気になるくせに涼しい顔して知らんぷりしていいとこだけもってくの!ずるい!卑怯!卑劣!臆病者!きらい!きらい!だいっきらいっ!!」
わあん、と泣きたかった。大きく口を開けて大粒の涙を流して全身の力を抜いて、聞き分けもなくわあぁんと。だがミミはそれが出来なかった。今までは自然に何の問題もなく出来ていたはずなのに。
もうこんなことで自分の言いたい事を有耶無耶にしてちゃダメだって解ってるのに、他にどうすればいいのか分からない。きちんと言葉に出来ない。
ちゃんと考えて、考えて、冷静にしてるつもりなのに……最後はみんな自分でダメにしちゃう……!
……思えば、感情のままに泣き喚くことを許されていたこの場所を離れ、最後に泣いたのはいつだったか。日にちなど問題ではない。ただのその泣いた理由も風景も思い出せず、肩を落としてベッドの上に蹲る自分がミミにはなんだか可哀想な気がした。
整理もできず、泣いてメチャクチャにも出来ず、ただバラバラに砕けた問題の前で眉を下げるしかない自分。無力で非力で無能な自分。哀れむ事さえ恥かしくて出来やしない!
15
男というのは大抵の場合、こういう局面に非常に弱い。感情を感情のまま感情で受け止められない。何とか順序立てて理解しようと試みはするが、ソレが出来ないから今の状況なのだと分析・納得出来る耐性がないと、ただうろたえるしか方法がない。
光子郎も例に漏れず宥め賺す技術はおろかその発想も無く、ただ泣くしかしないミミがだんだん哀れになってきた。
寂しいのだろうか。悲しいのだろうか。辛いのだろうか。……不甲斐ない自分の為に。
「……ミミさん」
名を呼ぶ。
返事は無い。ただ部屋に広がるのはすすり泣く声。居た堪れない。
「あなたの怒ってる顔も、泣いてる顔も、もちろん笑ってる顔も……全部好きなんです。全部見たいんです。全部独り占めにしたい。……手段や場合を問わなかった事は心から謝ります。
でもミミさんの嫌いなところも、イヤな所も、全部好きなんです。……好きなんだ……」
理解されないと思うけれど、僕は君さえ居ればいい。後は何も要らない。……でも、君が居なくちゃダメなんだよ……
ぽつりぽつりと落とされる言葉がすすり泣きに砕けて消えてゆく。
泣いてるミミの肩を抱くように光子郎がグッと力を込めて覆いかぶさった。ミミの涙がシーツに散って染みになる。
「泣かないで。泣かれたらどうしていいのか分からない。
理解できるようになるから。諦めずに解読するから……言葉で話して、言葉で伝えて」
独白のような、懺悔のような、許しを乞うような、光子郎の言葉の裏には、彼のまだ認めざる卑屈と傲慢が隠れている。そして見知らぬ支配欲と征服欲すら。
「……言葉じゃなきゃダメなの?光子郎くんの理解できる言葉で喋れなきゃ、解って貰えないの?」
ミミは知っている。直感と経験で知っている。自分の不自由と限界を知っている。
「抱きしめたりキスをしたり、えっちするのはじゃあなんなの!?」
言葉じゃなきゃ意味が無いなんていわないでよ!解読しなきゃ解らないなんて言わないでよ!
ミミが光子郎の腕の中で叫んだ。掠れがちな上擦った声で。
ビクッと一度大きく震えた光子郎の腕が、力を失う。全身でしがみ付いていた筈の腕の力が抜け落ちてしまう。
「寂しいから!?会えなかった時間を埋めるため!?気持ちいいから!?あたしを自由に出来るから!?
あたしは違うわ!言葉に出来ないことを身体で喋ってるつもりだった!愛してるって!頑張ろうねって!元気出してって!」
やっぱり何も解ってないんじゃない!
最後のセリフを叫んだ時、ミミの体に光子郎の重みはどこにも残っていなかった。
ただ荒い息つぎが続くホテルの一室のベッドの上にぼんやりとした顔……否、ぼんやりとしか出来ない顔で、光子郎が力なくへたり込んでいた。
☆
16
こんな事はもはや無駄だと知っているのに、二人はせずには居られない。
もっと正確に表現するならば、二人でここに居る為にしなければいけなかったとも言える。
狭いホテル、外は暗闇。出てゆく宛てもない光子郎を放り出すことなどミミには出来なかったし、静かな一室にたった一人ミミを置いてゆくことなど、光子郎には考えられなかったから。
部屋の薄暗い明かりの具合でそう見えるのだろうか?短い光子郎の指がキーボードの上で細かく動くようにミミの首筋に添えられた。彼女はそれを咎めることなく、顎をその指の上で滑らせる。
いつもの合図。
ちぐはぐなぐらい雰囲気に似合わない。
ミミの頬にはまだ涙の跡が残っていた。光子郎の全身にはまだかすかな震えが消えないままだ。
二人は心底相手を恐ろしく思っていたのに、身体がいつもの通りの手順で相手の悦ぶ場所を探り当て、そこをいとおしげに撫でるので、まるで自分達が機械仕掛けかプログラムにでもなってしまったような気がした。
キスをする。唇には一片の力も篭っておらず、熱が灯り、水を湛えるかのように潤んでいる。
いつものように。
ミミは瞼が熱くなってくるのを必死で我慢して光子郎の後ろ頭をぎゅっと抱きしめ、光子郎は投げ出したくなりそうなミミの背中を情熱的にまさぐり、震えを誤魔化した。
一番最初に彼女の肌に触れた時の震えとは違う。あの時の胸の痛みはちくちくと酷かったけれど、幸せだった。濃い空気は熱くとろとろと身体中に纏わり付いたけれど、暖かな湯に浸かっているようで心地良かった。
『怖い』
触れるのが怖い。自分を曝すのが怖い。一緒に居るのが怖い。
自分を少しも偽れず、光子郎はただ恐怖した。素直に、何の用意もなく、気構えも出来ず、ただ恐ろしさに身を縮めるしかなかったのだ。なのに自分の身体はいつも通りにミミの肌を摩り、唇は気を抜くと愛しいと囁こうとする。
『怖い!』
何か喋ることが出来ればよかった。自分が彼の唯一の言葉という武器を封じてしまったことを刻一刻と過ぎてゆく時間に思い知らされ、その恐怖と後悔にミミは肩がわなわなと震えていた。
両肩に手が触れる。手が両肩に触れられる。互いに電気に触れたかのようにびくりと痙攣した。
それでも二人は何の声も上げない。
その様子に、耐えているかのようだとそれぞれが他人事のような感想を持つ。
17
律儀に興奮する自分の身体がおかしかったが、いつものように楽しいとは思えないのだ。喉はからからに渇いているのに舌にはたっぷり唾液が滴っていて、心臓もどきどきと早い鼓動を打った。
ミミではなく、他の誰かを抱いているような気がした。中指をいつものようにそっと濡れた茂みの先に沿わせても熱いぬかるみに埋めても、泥濘の音は寒々しく空虚な気分しかしない。義務のような。
視線の先にくねりながら声をあげる彼女が居ても、それがガラスでも挟んでいるかのような距離を感じるのは、一度もミミが目を合わさないから。……かと言って仮にミミが光子郎の顔をしっかりと見据えていたなら、彼は視線を逸らしただろう。
不自由や不都合が無い程、身体を合わせる準備は二人とも整っている。
だが、光子郎は執拗にミミの身体を弄くり、自分の性器には触れないようにしていた。ミミはミミで、自分の身体を投げ出すように好きに触らせ、光子郎の身体に自分から触れないように身を硬くしている。
――――――本当は、したくないんでしょう?
そう尋ねられたならどんなにか気が楽になったろう。
……なみだ出ちゃう……
ミミはそれでも涙を食いしばる。流してしまったら最後、自分の強がりの全てを悟られてしまうような気がして。
悟られてしまったら、今度こそ軽蔑されるような気がして。……軽蔑してしまいそうな気がして。
眉間にしわを寄せ、薄く仕舞い込まれた唇は固く、それでもつんと上を向いた彼女の胸の先端。いつもと違う張り詰めた肌に異常な興奮を感じるのに、どこか頭の中に霧がかっていて楽しくない。光子郎はその違和感を何とか振り払わんが為、息を止めてミミの身体に押し入った。
いつもどおりのぬる付く彼女の身体の内側なのに、ちっとも心地よく思えない。ふわふわ空中に漂ってるみたいに頼りなく、不愉快な車酔いに似た嫌悪感すら覚える。
仲間内では聡明な役目をいつもこなしていた光子郎にもしばらくその原因がつかめない。簡単で単純な、その理由が。
足を上げて 唇を這わせ 指を埋め込み 肌を擦る。
いつもと同じように。
粘りつく手の平を頬で拭い、左腕に舌が滑り、脇腹と臍を擽った。
いつもと少し違って。
視線を合わせないミミの顔を舐める光子郎、悟られぬように光子郎の身体を見つめ続けるミミ。
キスをする彼女の唇に力が篭っていて、光子郎は違和感の原因にやっと思い至った。
だが彼にはそれを言葉に出来るだけに力は最早残っておらず、真夏というのに凍る吐息となってすぐ霧散した。
☆
18
鉛のように重い身体が弾んでいる。静かな部屋。とても静かで、酷くうるさい。
でもお互い何も言わず、荒い呼吸だけが蔓延している。
惨めったらしい、とミミが思っている。意地汚いな、と光子郎が思っている。伝えぬまま、ぼんやりと。
「……寝よっか……」
「――――――はい」
『……ごめんね。』
そう一言残して光子郎が朝薄暗いうちに部屋を出、ミミは予定を繰り上げて09:02の便で機上の人となった。
ミミは腫れぼったい瞼を持て余しつつも、雲を眼下に捉えながら罪悪感とは違う感情を持ち、何故か涙が出ないことを不思議には思わない。
日本で最後に聞いた彼のセリフが全てを物語っているような気がする。
「簡単な言葉……。」
キスをして欲しかった。抱きしめて欲しかった。身体を愛して欲しかった。解り合うために。
だけどその一方でミミには光子郎の行動の理由がなんとなく予想が付いていたことを知らぬ振りは出来ない。
「……あたしはテントモンにはなれないのよ、光子郎くん」
彼は寂しいのだ。いつもいつも寂しいのだ。たまらなく孤独で物足りなくて、飢えている。どこかふわふわと漂っていた彼を何とか地に下ろしたのはテントモンであり、彼はその影を引きずりながらいつでも「再び失う事」を恐れている。
だからミミに執着する。だからミミに固執する。だからミミを放さない。
「―――――――あたしに言ったじゃない、パルモンと離れても何も失くしたりしないって……自分で言ってたじゃない。」
言い聞かせていたのだろうか。自分自身に。ミミは窓に映った眉を顰めつつも泣きもしない自分の顔を哂う。
こんな日がなんとなく、来る様な気がしていた。こんな日が来ないように懸命だった。なのに今この事態に自分はこんなにも平静なのは、初めから知っていたからじゃないのだろうか。
この恋がうまくいかない事を。
「あの時ポケットに詰め込んでアメリカに連れ去ってれば…………ううん、きっと……」
愛してる。愛してるわ、離れても。
愛してる。愛してるわ、心から。
祈るようにミミが頭の中で数度唱え、ゆっくり長い溜息と共に全身の力を抜いた。
☆
19
「やあ、休暇は有意義だった?」
マンションのエントランスで目ざとくミミを見つけたマイケルが駆けて来て声を掛ける。
「……まぁね」
ミミの素っ気無い言葉と表情の隅に、マイケルが違和感を覚えるようになるのはもう少し先、そして彼が自分の行為の先にこの態度があることを知るのは……それよりもっと先になる。
「連絡してくれれば空港まで迎えに行ったのに」
キャスターつきの旅行鞄を緩く握っていた手を制してひょいと持ち上げたマイケルの顔を、ミミは力なく一瞥して「マイケルは旅行楽しかったみたいねぇ」とまたぼんやりした目でどこでもないどこかを見た。
「写真も一杯撮ってきたよ。みせっこじゃ負けないぐらい」
「……どーでもいいけどなんであんたがうちのマンションに居るのよ。まさか前で張り込んでいたんじゃないでしょうね?」
じろり、と大きな帽子をちょっとだけ持ち上げてミミが気楽そうなマイケルを睨む。
「あはははーミミちょっと自意識過剰ー。このマンションのおばさん家に寄った帰り。おばさん科学雑誌の記者やってるからさ、昇級試験ギリギリだったサイエンスの点数稼ぎに自由研究でもやろうと思ってネタを貰いに来たんだ」
ミミもやらない?そう言ってマイケルは左手に抱えてた科学系と思わしき古雑誌の束を見せた。
「結構流し読みしてるだけでも面白いよ。例えば……『人の唾液からモルヒネの数倍の鎮痛作用を持つ物質発見さる!その新ペプチドをOpiorphin(オピオルフィン)と命名』とか」
すらずらムズカシそうな説明文を読み上げながらマイケルが旅行鞄と古雑誌の束を物ともせずに軽やかに歩いている。
ミミは多分光子郎くんだったら間違いなく旅行鞄は引きずってるだろうなぁ、とぼんやり考えて、ハッとかぶりを振った。
「ねっねえねえ!つまりそれってどういうこと?」
「だからさ……んーと、傷を舐めたりするのって実はとっても理に叶ってるって解ったんだよ。唾液って殺菌効果もあるし」
「でもさ、モルヒネって麻薬でしょ?それよりキツーイ薬がいっつも口の中にあるのって……」
頭の中を空っぽにしながら思いついた言葉だけをミミが喋る。なのに頭がついていかない。
「……唾液ってダウン系なんだ」
「――――――そう言う考え方もあるね」
ねえ、うちに来て一緒に自由研究やらない?共同研究ってことにしてさ。ミミの突飛な発想って面白いと思う。マイケルがはしゃぎながらそんなことを言うので、ミミは呆れながら言った。
「フラフラ紛らわせて夢うつつのあたしから痛みを取り上げる薬なんて要らないわ。苦痛も腐心もあたしのものだもの」
「?……そりゃ乱用すれば何だって悪いさ。要は用法容量の問題。現に僕たちは唾液ジャンキーじゃないだろ?」
マイケルがやはりのん気そうに笑いながら先を歩いた。もうすぐエレベーターホールだ。
……あたしの方がジャンキーなのかしら……
殴られた後のように痺れるミミの頭のどこかが、勝手にそんなことを言った。
12:08 2008/01/09
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