花の名前

                光子郎とミミ

                 ねえこーしろーくん

                 彼は名を呼ばれ、顔を上げた。

                 はい、なんでしょう

                 彼女は彼の何気なく気を使う仕草や態度が好きだった。

                 あの花なにかわかる?

                 彼は細い指の示す方向を見上げ、視線を彷徨わせる。

                 花ですか。あいにく植物には疎くて……どれです?

                 定まらぬ焦点に添えるよう、彼女は彼に触れるほど近く身体を寄せ、もう一度同じ言葉を使った。

                 あの花、なにかわかる?

                 薄く香るその匂いは彼女の指差す花からではなく、大きくカールした彼女の髪から漂っている。

                 いえ、すみません今は分かりません。

                 そっか、こーしろーくんでも知らないんだ。

                 でも、家に帰って事典かネットで探せばすぐに……

                 言ってしまってから、何故彼女に対してこんなに卑屈な言い方をしてしまったのだろう、と彼は後悔の根元を探索する事で自分の劣等感から目を逸らした。

                 いいのよ、別にそんなこと。

                 でも名前が知りたいんでしょう?

                 名前を知りたいのはこーしろーくんでしょう?私が知りたいのはこーしろーくんが知ってるかどうかだもん。

                 無知を笑われるのか、と彼は咄嗟に身構えたが、それ以上彼女は何も言わなかった。

                 彼はその無言が居心地悪く、何度か下らない話題を提供したけれど、彼女はそれに頷くばかりで乗っては来ない。

                 しばらくそんな悪戦苦闘の果てに訪れた更に居心地の悪い空気を打ち破ったのは、意外に彼女だった。

                 こうやって年に何度か日本に来て、たっぷり二人で居て、夜の散歩ももう何回目だったか忘れちゃったけど……

                 彼女が続けようとした言葉に、彼は「11回目です」と付け足した。

                 ……11回目だけど、それでもまだアメリカに帰るのに慣れないのよ。あと何度同じ思いをすればこれは終るのかしらね。それとも日本に帰ってきても続くのかな。

                 夜空を仰ぐ彼女の表情は読めない。

                 彼はそこにたった一人で居る彼女の孤独を、やましくも恍惚と盗み見て

                 「ミミさん、地球に住んでる生き物ってたかだか地表の数百メートルにしか居ないんですよ。たまねぎにたとえたら薄皮一枚くらいのものです。僕たちはそれよりももっともっと小さくて、だからつまりすべてのことはたいしたことじゃないんです。ぜんぜん、取るに足らないことで、さらに思考とか感情とか、もう無いのも同じくらいの本当に小さなことで、だからそんなに深刻になるようなことじゃないんです。人間どれだけ生きても200年は生きられないでしょう?でも200年という僕ら人間にとってとてつもない時間でも、宇宙からみたら星の一瞬の瞬きよりももっともっと短くて、だからなにもかも全てたいした事じゃないんです」

                 と言った。

                 彼の現状を誰よりも苦々しく思っているのは多分誰でもない彼だろう。だがその彼より深刻なそぶりで彼を貶めるのもまた、誰あろう彼自身だった。

                 何故、何故素直に自分もそうだと言えないのか。何故容易く彼女は空虚を口に出来るのだろうか。そう考え、泣き虫な彼女は自分よりも強く、我慢強い自分は彼女よりも脆い事を再確認する。

                 んもう、違うわよ!そんなことじゃないの!

                 彼女が苦々しく眉をひそめる。彼はそれを見てまた自身を貶めた。

                 じゃあ、どういうことですか?

                 わたしにこーしろーくんが納得するような説明なんて出来るわけないでしょ!
                 どうしてそう箱にお菓子を整列させるように物事を整理したがるのかしら。人間の頭ン中なんてメチャクチャなもんでしょう、メチャクチャで当たり前なのよ、それでいいのに!

                 ……じゃあ、どうするのが正解なんでしょうか。

                 ため息一つ付いた彼がギョッとする。いつの間にか目の前に彼女が居たから。

                 ゆっくり伸ばされる腕の先に彼の肩があった。彼のシャツに触れるか触れないか、そんな距離に彼女の少し熱っぽい指が宙に支えられている。

                 こーしろーくんは、出来の悪い生徒ねぇ。

                 ヒントが無いとこんな簡単な問題も解けないんじゃ居残りさせちゃうわよ。彼女がそう言いながら、満足げにゆっくり抱きしめられる。

                 彼はどきどき高鳴る心音を、初めて照れ隠しに恥ではなく、堂々と光栄に思えた。

                 ……本当は、居残りしたいのはミミさんなんでしょう?

                 耳元で囁くようにそんな言葉を降らせる。彼は自分でも臆病なやり方だと思った。自分の言葉を彼女に言わせようだなんて、賎しくて浅ましいとなじられ軽蔑されることさえやぶさかではない。

                 彼の体温と首筋の自分と同じボディソープとシャンプーの香りを思う存分堪能した彼女は、そっと彼の力を込められない腕を解いて、宵闇に白いフレアスカートを躍らせて。

                 答えはあの花の花言葉よ、と笑って大通りへの道へ消えた。

                 彼は彼女の指差した花の咲く木の元へ行き、折れて落ちたらしい一房を拾い上げてその匂いをかいだ。

                 「宿題、か」

                 彼はまた溜息をつきながら、その花の残る枝を友に元来た道を辿って行った。

                 胸に彼女の残した空木の花を挿して。


                13:11 2006/11/14

                 うつぎ≪空木・卯木≫  ユキノシタ科/落葉高木  花言葉:秘密
                 初夏 =卯の花(ウノハナ:幹の内部がうつろなので、この名がある)
                 古くから日本各地に自生し「万葉集」には二十四首詠まれている。
                 この花が陰暦4月頃咲くことから4月を「卯の花の咲く月」つまり「卯月」としたともいわれる。

                 


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