タカトとジュリ

                甘い逃げ腰

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                 いいのかな、こんなこと……
                 いいわけないよね、普通。
                 そりゃ加藤さんは好きだけど、なんか違う気がする。
                 首に巻きついてる腕がほんの少しだけ苦しい。
                 精一杯背伸びをしている加藤さんより、僕の背は高い。
                 ……っても、ほんの6センチしか違わないけどさ。
                 その上僕は階段を一段上っているし。
                 「ね、いいでしょう?」
                 加藤さんはかすれ気味の小さな声で僕の名前を呼ぶ。
                 呼ばれた僕は頭の後ろが痺れるみたいにぞくぞくぞく。
                 なんか違う気がするのに、逆らえない。
                 上手く説明できないけれどやっぱり何か違う気がする。
                 「……まずいよ……やっぱ」
                 背中に当たってる加藤さんの柔らかい身体からいいにおいがする。甘くて照れくさくなるような、フシギなにおい。まるで焼きたてのシュガーロールみたいに瞼がとろんとする。
                 「どうして?」
                 「……どうしてって……」
                 何がマズイってそりゃあ、キミが女の子で僕が男ってのが一番まずい。その上僕はまだキミからさっきの返事をもらっていない。だからと言ってその話題を今ここで出すのも憚られる。
                 「ごはん作ってあげる」
                 うん、それはありがたいんだけど。
                 ありがたいんだけど。
                 僕がそれだけじゃ済まないんだよね。
                 今だって……色々まずい事になってるし……何がどうまずいのかは敢えて言わないけどほんとうに、いろいろ。
                 「一人で寂しくなってる頃なんじゃない?」
                 最初の二日はすごい開放感で羽の伸ばし三昧だった。確かに4日目ともなるとする事がなくなってきて、ちょうど人恋しくなる夕暮れ時にこの申し出はすごく心が揺れるけど。
                 「でも、だって、加藤さんち、遠いじゃん。ごはん作ってたら遅くなっちゃうから危ないよ」
                 自分でもなかなか情けない言い訳だと思った。一番カッコ悪いのは声が震えてるとこかな。
                 「明日は土曜日だよ」
                 心臓が止まりそうになる。
                 身体が軋んだのはたぶん加藤さんにも分かっちゃったに違いない。
                 「……スーパー、寄っていこうよ。何が食べたい?」

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                 知り合いのお爺さん家が火事になった。うちが店を出すときにお世話になった人らしくて、お父さんとお母さんは取るものも取り合えずお爺さんの家がある横浜まですっ飛んでいった。僕は学校があるので留守番。
                 逃げ遅れたとは言え幸いにもお爺さんの命に別状はなかったけど、今一人身で近くに頼れる人もなく、動けないお爺さんの変わりにお父さんとお母さんが後始末をしたりなんかで走り回っているらしい。
                 「お店の方、ちゃんと張り紙変えてくれた?」
                 「うん、水曜日まで臨時休業って書いといた」
                 「一応火曜の夕方までには帰るようにしてるから、もし小麦粉が届いたら倉庫に入れといて。ちゃんと学校には行ってるの?ごはんは……」
                 お母さんの心配性は相変わらずで、一通りの返事をして電話を切った。
                 「おばさん、なんて?」
                 「あ、うん、お店の張り紙のこととか。」
                 キッチンから聞こえる加藤さんの声と久しぶりに嗅ぐ夕餉の匂いが、なんとなく心を落ちつかせなくするくせにほっと心を緩ませ、ちぐはぐな音を心臓にさせた。
                 「すごいね、魚の煮付けなんて出来るんだ」
                 「小料理屋の娘ですもの。味は保障しないけど」
                 あわただしく動く加藤さんの邪魔にならないように最初のうちはテーブルを拭いたりお皿を出したりしたけれど、それもすぐに終ってしまう。
                 手持ち無沙汰でウロウロしているのもヘンだし、かといって自分の為に夕食の支度をしてくれている人を置いて別の部屋に引っ込む気にもなれなかったので、取り合えず自分の席につくことにした。
                 夕日が柔らかく射すキッチンに向かい、お母さんのエプロンをたくし上げて纏っているセーラー服の加藤さんの背中。慣れた手つきで包丁のビート。細かく煮立っているお鍋のリズム。
                 さすが女の子だなぁ、なんて陳腐な感想と同時に「それって差別!」と睨むルキの顔が浮かぶ。そして懐かしい面々、あの冒険の日々、掛け替えのない親友たちのことも。
                 ……まいったな、思い出さないようにしてるのに。
                 あれから2年経って、ぼくたちは中学一年生になった。
                 ルキは私立の学校へそのまま進学。リーくんはパソコンの勉強を本格的に始める為にルキと同じ私立中学に進学した。なんでもパソコン関連の学科があるらしい。
                 リョウさんからはときどき手紙が来る。元気に受験生をやってるそうだ。
                 ヒロカズとケンタと僕と加藤さんの4人は学区内の市立中学校へ。だけどクラスが全員バラバラになってしまい、顔を合わすこともすっかり減った。……加藤さん以外は、だけど。
                 そして親友たちは。
                 小学6年生の時にパケットメッセージを送り、それに対する返事は未だ来ていない。そのことに触れることが暗黙のタブーになってしまった時、僕たちは強く握り締めていたお互いの手からゆっくりと力を抜き始めたのかもしれない。
                 デジタルワールドへのゲートは――――――まだ開かない。

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                 中学に入って、僕と加藤さんはなんとなく二人で居るようになった。時々友達に二人で居る所を見つかってからかわれたりもするけれど、あまり気にならない。
                 それは多分、その子達が囃し立てるような好きとか嫌いとかで一緒に居るんじゃないからだと思う。
                 ……少なくとも加藤さんは。
                 中学校でも明るく振舞う可愛い加藤さんは人気者で、移動教室なんかで見かけてもいつも大勢の友達と楽しそうに笑っていて、隠れファンもきっと多いに違いない。
                 だけど僕と二人で居る時の加藤さんは、少し違う。どう表現したら分かってもらえるかは解らないけれど、みんなと居る時の加藤さんを太陽だとしたら、僕と居る時の加藤さんは月みたいだ。
                 静かで冷たく近寄りがたい。でもときどき突拍子もなく僕に甘えたり、こうやってワガママを押し通したりして、僕はそれにまだ慣れたり出来ないでいる。
                 そして拒否ができない。
                 嫌われたりしないかとか、そんなことが心配だからじゃない……なんて言い訳かな?でももし言い訳を許してもらえるなら、なんだか不安だったから。
                 二人で居る時の加藤さんは、まるで僕が居なかったら生きていけないという風に僕の手を離さない。それがなんだか迷子の小さな子供みたいで放っては置けないんだ。
                 「やぁだ、何見てるの」
                 ふっと振り返った加藤さんが照れたように頬に手を当て、くすくす笑った。
                 「そんなにお腹すいた?」
                 もうちょっと待ってね。加藤さんがお鍋の具合を確かめながらそう言ってまた熱心に台所へ向かった。
                 僕はその後姿に向かってさっきの質問をもう一度投げ掛けてやろうか、と思ったけれど、止めた。
                 答えないということはきっと答えたくないのだろう。
                 無理強いして悲惨な答えをつき返されるのはゴメンだと思った。
                 ……もしここにギルモンが居たらなんて言うかな。
                 『タカト、どうしてそんな悲しそうな顔してるの?』
                 ……うん、これが一番しっくりくる。
                 想像の中のギルモンが首を傾げながら心配そうに僕の顔を覗いた。ふっと鼻で笑って、深呼吸を2度し食器棚のガラスに映る自分の情けない顔を両手で覆いながら擦る。
                 ごん、とテーブルに額をぶつけて、光る加藤さんの肩や髪を見ていた。
                 オレンジ色に輝く鼻先や唇は本当に綺麗で、魅力的だ。細い手首や小さな手の平なんか見てるだけでうっかり手を伸ばしそうになる。
                 ああ、きみに触りたいな。

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                 ごはんを食べ終わり、洗い物を済ませてから加藤さんが制カバンを持ったので気が変わって帰るのかな、と拍子抜けに思いつつ腰を浮かせた。
                 「数学のプリント出た?うちのクラスの先生すーぐ宿題出すのよ。嫌になっちゃう」
                 カバンの中から筆箱と教科書を引っ張り出す彼女に眉をひそめ、気付かれないように溜息をついた。
                 「……ここ寒いし、居間に行ってコタツでやらない?」
                 学ランのカラーのホックを外し、僕はもう半分諦めてしまった。どうとでもなれ。
                 居間にはテレビがあるのでついいつもの調子で電源を入れたけれど、加藤さんは意に介さず数学のプリントを広げてコタツに着いた。バラエティ番組の笑い声も寒々しい。
                 「……英語の予習やろっかな……」
                 コタツの対面に着き、家では滅多に開かない英語のテキストとノートを広げ、黙々とシャープペンシルを滑らせる加藤さんに倣うようにセンテンスを和訳してゆく。
                 小さく絞ったテレビの音が遠い世界のことのようだ。コタツの天板を叩く二本のシャーペンの音がカリカリかさかさ耳を煩わせる。
                 低く唸る店の冷蔵庫のモーターハミングや、外に吹いている木枯らしが窓を揺らすバイブレーション、ちりちり囁くコタツの赤外線装置の振動がなんだか嫌に大きく聞こえる。
                 「ねぇ」
                 不意に加藤さんが声を上げたので、僕は心臓が止まるかと思った。
                 「なっ……なに?」
                 「因数分解って、ここひっくり返すんだったっけ」
                 プリントを翻して細い指が数字を指す。小さなうすべに色の爪が蛍光灯の光を鈍く反射していた。
                 「えっと……うん、そう」
                 「ありがと」
                 元の位置に収められたプリントに扇がれて巻き起こった小さな風が、微かに甘く薫ったような気がする。きょろきょろと挙動不審に動かす目玉や瞳孔の絞りがなかなか定まらないのは、このヤマシイ鼓動のせいだろうか?
                 意を決してまぶたを押し上げるように焦点の着地地点を取り決めた。
                 長いまつげに少しとがった唇。さらさらのほっぺたは色付き始めた桃の実のようにきれいだ。
                 加藤さんは視線に気付いてない。僕の手の届かない場所に居る女の子はみんなとても清廉で、その拒絶感が寂しいけれど羨ましくもある。
                 ……加藤さんが清廉なら、ルキには清冽というのが似合ってるかな。
                 もうずいぶん顔も見ていない仲間の子のことを思い出し、僕は一人で笑いをかみ殺した。
                 誰の手にも届かない女の子たち。
                 それに必死で手を伸ばす僕たち。
                 遠くから眺めているばかりだけれど、いつかこの手が届く日が来るんだろうか?

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                 カリカリ響くシャーペンの芯が削れてゆく音は途切れない。
                 いつの間にか窓に水滴が張り付いていた。夜の帳が下りるのが早くなってもうずいぶん経つ。ぱさぱさとプランターの木の葉に落ちる雨粒の気配に憂鬱を感じる。
                 それでも弱に設定されている赤外線装置は暖かくて、温められているコタツの天板の温度に安心した。
                 頬をテーブルに当て、視線は髪の下がったおでこから見える加藤さんの伏せがちなまつげに固定。
                 ぼんやりそうやってたら、コタツ布団の中でもぞもぞと蠢くものがあった。
                 おごめくソレは注意深く僕の脛を伝って膝を探り、そろそろと太股のあたりまでやってきた。
                 なんとも居心地が悪くなり、顔を浮かせて加藤さんを見る。それにようやく気付いたのか、彼女も同じように僕を見た。
                 「ああ、ごめん。足、痺れちゃって。ちょっと伸ばさせてね」
                 それだけ言うと同じ体勢に戻ってまた手を動かし始める。
                 なにも人の足の間に足突っ込むこと無いじゃないか。ちょっと除ければ良さそうなものだろ?僕は正座してる足をちょっと開いて、その足から少し距離を置いた。
                 置いたんだよ、距離を。
                 なのに何故この足は本数が増えてますか。
                 コタツ布団をめくると、黒い学生ズボンの間に白いハイソックスの足が二本。さっきより深度を増して突き刺さっている。
                 ……えーと。
                 これは何か言うべきなんだろうか。いやしかし、取り立てて文句言うほどのことでも無い気もする。それにこのコタツが狭いのは十分承知している。なんたって僕が生まれる前からこのうちにある、お父さんが学生時代に一人暮らししてた頃の単身者用コタツだ。
                 足を布団から出たら寒いからね。うんうん。風邪引いちゃいけないもんね。
                 僕は一人頷いて納得した。
                 ……したんだってば。
                 したのに。
                 どうしてこの足はまだ動くんでしょう。
                 「あ、あの……」
                 居たたまれなくなった僕がおずおずと声を上げたけれど、加藤さんは変わらぬ表情でプリントに向かっている。
                 「かとう、さん」
                 名前を呼んで、やっと顔を上げてくれた。
                 「ん?どうしたの?」

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                 その顔は全く平気のへいちゃらで、どこにも悪戯してる気なんかない表情だったので、僕はなんだか逆に恥ずかしい気持ちになってしまった。
                 きっと無意識にぬくいとこに足を突っ込んだくらいしか思ってないんだ。もしかしたら布団だと思ってるのかもしれない。もしも僕の足だと気付いたらきっとすごく困っちゃうだろうし、僕よりよほど恥ずかしいに違いない。
                 「あっ、い、いや、なんでもない」
                 「……ふぅん?」
                 何の気なしに加藤さんはまた視線を元に戻し、僕は背筋を伸ばしてまた少し身体の位置を下げる。幸いそれ以上白い靴下が僕の足の間を侵食する事はなかった。
                 なかったけど。
                 なかったんだけど。
                 ……どうも……変なスイッチが入っちゃったみたい……
                 今まで確かに肩や腕が寒かったはずなのに、今じゃなんだかぽかぽかなんて穏やかでない暖かさが全身を駆け巡っていて、消しゴムを握っている左手が赤くなっている。
                 あ、これ、やばい。すっごくやばい。
                 太股の間にある脚が二本。ああ、なんなんだよこの絶妙な位置関係。なんかよく考えると小さい足だね。足の指が太股に触れてるのが判るよ。もうちっとも動いてないのにスゴい存在感だアハハハハ。
                 なんだか背中に嫌な汗をかいてきた。
                 頭の中から足のことを追い出そう追い出そうとすればするほど、やれ冬服のズボンは生地が厚くて残念だの、やれこの足は微妙に開いてるけどその先はどーなってんだだの、不埒千万なことばっかり頭をよぎる。
                 ああ僕は変態だったのか。
                 その自覚が悪かったのか変に身体に力が入ったのが悪かったのか、思わず強張った太股を閉じてしまった。実際は足があったのでその足に圧力が掛かっただけだったけれど。
                 掛かった圧力に反応した足がさらに伸ばされた。
                 やばっ……!
                 「……あぁっ!」
                 「えっ?」
                 変な声を上げてしまった僕に驚いた加藤さんがびくっと足を引っ込める。
                 「や、やだ、蹴っちゃった?」
                 心配そうに身を乗り出す加藤さんに、僕は引きつってて固まった最悪な顔で返事をする。……気付かれなかったかな?気付かれなかったよね?
                 「や、だい、じょうぶ!ぜんぜん、へいき!」
                 …………僕のバカっ!

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                 「……うん、雨降ってるし暗いから泊まって行きなさいって。うん、うん。大丈夫、うん、はい……」
                 うわぁ。
                 お風呂から出た僕は思わずそう頭の中で唸った。呆れているのか感心しているのか、自分でも良く解らない。
                 「えへへー。ちゃんと電話したよ」
                 「……嘘つきはドロボーの始まりだよ」
                 「嘘なんかついてないもーん。泊まって行きなさいって“言われた”とは言ってないもんね」
                 「……ずるっこだ」
                 へらへら笑っている電話に向かったままの加藤さんの後ろをすり抜けて、首にかけたタオルを持ったまま僕はお父さんとお母さんの部屋になってる8畳の和室に入った。
                 「……敷いたんだ、布団」
                 「うん、勝手にしちゃってごめんね」
                 「それば別にいいんだけど」
                 静まれ心臓。震えるな足。止まれ汗。
                 そこにはいつも見てる通りに敷かれている赤と青の布団が二組。……二組。
                 「ぼっ僕、自分の部屋のベッドで寝るから…か、加藤さんの分だけでよかったのに」
                 変なこと考えるな。深く考えるんじゃない。加藤さんは布団が二組あったから何の考えもなしに敷いただけだ。てゆうかほら、いつもの癖とかだよ。だから全然気にするようなことじゃないんだって。な!
                 「えー、せっかくのお泊りなんだから一緒に寝ようよー」
                 一緒に寝ようよ。
                 いっしょに。
                 ねる。
                 ぞわぞわぞわ。背筋がそそけ立つ。顔が赤くなるのが自分で判った。頭がガンガンする。
                 「そんで好きな子の名前とか教えっこするの」
                 うふふ。嬉しそうな女の子の笑い声。
                 それが何故だか加藤さんの声に思えなかった。
                 さっきの居間で鳴ってたテレビの音みたいに、遠くてどうでもいいみたいな、ただの音。
                 タオルを握ってた自分の手がこれ以上無いくらい強く握り締められる。
                 「修学旅行みた〜い」
                 背中ではしゃいでいる女の子の声がやっぱり加藤さんの声に聞こえない。ただの音だ。つまんないドラマの音声。僕に関係の無い物語の効果音。
                 「加藤さんさぁ、夕方の僕の話、ちゃんときいてた?」

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                 もう何も怖くないはずだった。ギルモンと心も身体も重ね合わせて共有することを知ってる僕には。
                 「……どしたの、怖い声して」
                 ギルモンは僕を好きだと言ってくれた。いつも僕について回って、僕を信じて、僕を……嫌わなかった。
                 「聞いてた?」
                 もう一度僕は言う。はっきりとした滑舌は恨みがましさにまみれていて、みっともない。
                 「ちゃんと聞いてたよ」
                 教室で聞くいつもの加藤さんの声がようやく僕の耳に届く。安心した半面、ひどく恐ろしい。
                 ――――――加藤さんはギルモンじゃない。
                 「だったら、ぼくのきもち、わかってて……そういうこと言うのはなんなの?」
                 声が震える。
                 今はとても怖い。たった一人で戦うのがこんなに怖かったなんて知らなかった。けど、不思議にこの挑戦をやめようとは思わない。僕の言葉に返事をくれなかった。それはどういう意味?知りたいと問い質すのは無粋?そう訊ねたくてたまらない。
                 ……僕、変わったよ。君と一緒に居たから。あの頃の僕ならきっと言わなかった……一生。
                 「僕は加藤さんが好きだよ。小学校の時に言ったのよりずっと。加藤さんは僕のことどう思ってる?」
                 もう一度、あの公園の階段で言ったセリフと同じ言葉。
                 あの時は階段の上から、今は加藤さんに背を向けて。
                 ……僕は本当に意気地が無い。自分でも嫌になる。でも何かしなきゃ、何か言わなきゃ。
                 「答えて、言葉で、ちゃんと、嫌いでもいいから、聞かせて欲しい」
                 知りたい。僕のことどう思ってる?
                 窓の外にはしとしと雨が降っている。部屋の時計は誠実にコチコチ時を刻んで、見慣れた和室がまるで異次元空間みたいだ。少し肌寒い空気は止まったかのように静まり返っている。
                 不意に小さな足音が聞こえて襖が遠慮がちに閉まる音がした。
                 細く長く僕は溜息を吐く。
                 「わかんない、加藤さんのこと」
                 「あたしもわかんない」
                 ギョッとして振り向いたそこには、後ろ手に襖を閉めた体操着の加藤さんがいた。
                 「で、でてったんじゃなかっ……」
                 「だってそんなの――――――――もう逃げるの、やなの」
                 どん、と背中に軽い衝撃が来た。思わずたたらを踏みそこね、布団の上に倒れ込んでしまう。舞い上がるほこりが蛍光灯の光に反射してちょっときれいだと思った。
                 「でもどうしたらいいのか解らない」
                 僕の背中に引っ付いたまま倒れこんだ加藤さんの身体は軽くて、柔らかい。

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                 ドキドキ心臓がうるさいけど、破裂しそうなのはむしろ頭の方だ。背中に覆い被さっている体操服のごわごわした感触が、パジャマの向こう側で潰れている。そして心臓の鼓動。自分のじゃない心臓の鼓動。自分の鼓動と全く重ならない不協和音がますます頭に血液を送る。
                 「ぃたぁ……」
                 嘘だ。どこも痛くない。背中と言うより腰の辺りでドキドキ振動する彼女の心臓に、どうしたらいいのか解らないくらい興奮する。静まれ、静まれ、静まれー!
                 シャンプーの匂い、冷たい赤色の布団の肌触り、身動き取れない手足、加藤さんの重さ、温かくて柔らかい……胸の感触、弾む呼吸と暖かい吐息。
                 し、しんぢゃうよーっ!
                 ドギマギ暴走する思考はメチャクチャで使い物にならない。
                 「…あたし、まだ帰ってきてないみたい…」
                 古い老木が軋むような音がしたのかと思うほど、あれだけ熱かった頭の中が、身体が、思考回路が固まった。
                 「逃げるのやだとかカッコイイこと言っててさ。これじゃタカトくんに逃げてるんじゃん」
                 駄目だよね。そう呟いて彼女は黙った。
                 ゆっくり背中に乗っかってた重さが消えて、もぞもぞ青色の掛け布団が盛り上がる。カチカチカチ。時計が時を刻む音と、微かな加藤さんの呼吸が聞こえるだけになった部屋はひどく物寂しいような気がした。
                 何を言う気にもなれなかった。何も言えなかったんじゃない。何も言いたくなかった。
                 なのに何故か何か言わなくてはいけないような焦燥感。
                 胸が悪くなりそうだ。
                 まるでデジタルワールドへ逃げ込まれたみたいな。
                 しばらく僕は黙って青い布団を苦々しく見つめていたけれど、諦めて電気を消して赤い布団に潜り込んだ。久しぶりに見上げる和室の天井は寒々しくて落ち着かない。
                 「加藤さん」
                 不意に呼んだ名前が意味を持った。
                 「なに」
                 「天井見てみて」
                 ごそごそと隣で音がして、その音はすぐに収まった。
                 「電灯の隣に、木の節があるの見える?」
                 「見える」
                 「あれ、小学校入る前にここに越してきた時、人の目に見えてさ、怖くて眠れなかったんだ。
                 でもその隣の年輪ってなんとなくクジラに見えない?クジラだーって思った時、僕あの節がクジラの赤ちゃんに見えたんだ。」

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                 「言われれば、そう見えるかな」
                 枕に頭を埋めたまま、加藤さんが天井に向かって呟いた。僕は布団の中から手を出して天井を指す。
                 「そしたらこの天井全部が海ってことになるじゃない。あれは島で、あれは波でって、色々想像してたらすっごい楽しくなってきて……いつの間にか節が人の目に見えて怖かったの、忘れてたんだ。」
                 いつの間にか忘れていたことを思い出した。いつか思い出したことも忘れちゃうんだろうか?
                 温かい布団から出した手が休息に冷えてゆくのが分かる。
                 「でもまだあの時の怖い感じ、覚えてる。だって本当に怖かったんだもん」
                 僕は忘れないようにと思い出を繋ぎとめるのに、加藤さんは早く忘れようと蹲って頭に命令をかけている。
                 平気な顔も出来ない、必死に追いかける事も出来ない。どっちつかずは、とても苦しい。
                 「……口に出したら寂しくなっちゃうからみんな我慢してるけど、顔合わせると思い出しちゃうからまだちょっと距離おいてるけど……みんなちゃんと居るよ。加藤さんもちゃんとリアルワールドに帰ってきてるから、心配しないで。」
                 頭を4分の1だけ回転させて天井をぼんやり見上げる加藤さんを見ると、口が少し食いしばってるのが分かった。布団から出たままの、冷えた握り締める右手でキミに触りたい。
                 「いつか、いつかまたあっちの世界にいけることがあったら、一緒にデジタマを探そう。そんで……」
                 そこまで言って、僕はしまったと思った。もしそのデジタマをレオモンに育てても、それはあのレオモンじゃない。僕は思いつく限りの言い訳を探したけれど、どれも口にする気にはなれなかった。
                 「……ごめん」
                 「そんで、ギルモンちゃんと4人でピクニックするのよね」
                 不意にぎゅっと布団の中の左手を握られた。
                 「楽しみ」
                 少し体温の高い加藤さんの手がとっても暖かくて、柔らかくて、胸がたまらなくどきどきした。
                 加藤さんと手を繋ぎながら僕はこの子がほんとに好きなのかな?と考えてみた。何度考えてみても好きだと思った。守ってあげたいと思うし、居なくなっちゃったらきっと大泣きするだろう。
                 じゃあ加藤さんは僕のこと好きなのかな?と考えてみた。何度考えてみても分からなかった。どんなに考えてもちっとも分からない。
                 手を握ったままの加藤さんは眠っているように見えた。
                 僕もそれに倣って目を閉じる。
                 大丈夫、大丈夫、きみはちゃんとここに居る。手の温もりを感じるもの。
                 せめて夢に見よう。楽しかった一年間の夢を見よう。目覚めて寂しくなる朝を繰り返すたび付ける夢日記がかさんでも。
                 でも今は初めて朝が待ち遠しい。
                 君が帰ってきたら、たくさん話す事があるよ。
                 きみが帰ってきたら、今度こそ答えをくれるかな。

                14:57 2006/09/21

                 


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