to remember

                光子郎とミミ


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                 彼がパソコンに向かう時、私は居なくなる。居なくなるっていうか、消える。
                 必死でキーボードを操作しながら同時に二つも三つも画面見て挙句にマウスでクリッククリック。頭がヘンにならないのかしらね。私なんかやっと両手でキーを打てるようになったってのに。
                 カチカチカタカタ鋭い音が響く。時々小さく口の中で何がつぶやいているけれど、その内容は私には計り知れない難しいことばっかりでちっとも解らないし、興味が無い。
                 「ねぇー、パソコンで難しい事ばっか考えてて頭痛くならなーい?……もう終わりにしようよー」
                 ヒカリちゃんとタケルくんは未だにパソコンに噛り付いてる光子郎くんにあきれて、全員に連絡を付けるついでにテイルモンとパタモンを連れて飲み物を買いに外へ出て行った。
                 「まだです。クラモンをデリートするのが現実不可能なら、せめて一度開いてしまったデジタルゲートを閉じなければいつまた出てくるか解りません。所詮は応急処置ですが出来ることは全部しておきたいんです」
                 なによ、返事する時くらいこっち見なさいよーっ……と怒る気力も失せた。疲れてるくせに、こうと決めたら絶対にてこでも動かない頑固なのは嫌と言うほどよーく知っていたから。
                 「それさっきも聞いたぁ。あと何時何分何秒に終わるか知りたいのー」
                 「京くんが無制限にポートやらゲートやらなんやら全開にしてくれたもんで、一つ一つ手動でロックしているわけですから……とりあえず今の所はなんとも……」
                 カタカタカタカタ。迷いのないキータッチの音が早くなったり遅くなったり。
                 私はキーボードを取っ払ったデスクに顔を伏してその音を聞いている。緊張から解き放たれた頭に心地よく響く無機質なリズムは、まるでピアノの演奏みたいに淀みなく続く。
                 私はあのパソコンの中には居ないのに、こんなに傍に居るのに、まだちゃんと話してさえないのに。
                 腹立たしい反面、いつもと変わらない彼の態度に少しだけ安心する。まだ彼は彼のままだった。変わらず、あの時のままの光子郎くんの元に、懐かしの我が祖国に、思い出の我が故郷に……私は居るのだ。
                 「そう言えば、この後ってどうするんですか?」
                 珍しく彼から話題を振ってきたけれど、顔は相変わらずパソコンに向いたままペットボトルを傾けている。
                 「……私ラブホテルのお風呂って好きじゃないのよねー」
                 ぶぴ。口に含んでいたウーロン茶が噴出した。ギリギリでモニターにもキーボードにも掛からずに済んだようで、その代わりを全部引き受けたカーペットはべっしょり濡れている。

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                 「げほっげほげほげほげほ」
                 赤い髪が苦しそうに咳き込んで机の陰に頭を落とす。
                 「うゥー!きちゃなーい。なにやってんのよォ泉センパーイ」
                 うえー、と眉を顰めて身を仰け反らせ、私は大げさに顔をゆがめた。
                 「ななななにを言うんですかいきなりっ!こ、こっここ、が、学校ですよ!」
                 ペットボトルのウーロン茶というのは、いや、缶入りでもそうなんだけど、鼻に入るとものすごく痛い。吹き出るのを押さえようと無意識に口の中で逆流させたのが鼻に入ったら、これでもかというほど痛いんだろう。
                 「泉センパイ、鼻水出てるよ」
                 「だっ誰のせいだと思ってるんですか!」
                 ちり紙で鼻をかんだり涙をふいたりよだれを拭ったりして必死に体裁を整えている彼の傍に立ち、床に零れたウーロン茶の染みを机の陰に掛けてあった雑巾で覆ってぎゅうぎゅうと足で踏んづける。
                 これは彼。きっと見立てて踏みつけられる理由も解らない、ニブいあなた。
                 「だーって。泉センパイがこの後どうしますーって訊くからさー。お風呂入りたいなーと思ったけど、まさか泉センパイをおばさん家に連れて行くわけにはいかないじゃない。そしたら必然的にラブホかなーって」
                 「飛躍しすぎです!……だいたい、なんですかその“イズミセンパイ”ってのは」
                 あ、ようやく顔、見たわね。もう一押し。
                 「京ちゃんにそう呼ばれてニコニコ嬉しそうな顔してたから」
                 私はぷいっとそっぽを向いた。その場を去ろうという素振りもなく、腕組したまま彼のそばで雑巾をグリグリ踏んづけている。解るかしら、大ヒントよ。
                 「……じゃ、京くんにもみんなと同じように光子郎さんと呼んでもらうようにします」
                 思わずハッと驚いた顔を跳ね上げてしまう。首から下がっている星のペンダントが大きく揺れてささやかな音を立てた。そ知らぬ顔をして平気の態度を崩さずにいた彼の唇の端がにっと持ち上がる。
                 「――――――嘘ですよ」
                 椅子の小さなタイヤが小さな音を立てながら転がっていった。立ち上がった彼の目線と等しく自分の視線があることに驚きを覚えたのはいつだったか、もう実はよく思い出せない。
                 キャスター椅子がどこかにぶつかった軽い音を聞きながら、ミミさんもやきもち焼くんですねと彼は笑った。

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                 「なによ、それ」
                 「ぼくばっかり好きで、ぼくばっかりやきもきしてて、ぼくばっかり片想いなんだと思ってました」
                 言われて自分の頬がぽっと染まったのがわかる。それを見てはじめて自分が結構恥ずかしいことを言ったことに気が付いたのか、同じように彼の顔が赤くなった。
                 外はまだ暗闇がそこここに残っていて、気温も少し肌寒い。朝の光が弱々しく校庭を照らしているけれど、まだ夜の匂いがしていたのが…少なくとも私の…スイッチを入れたのかもしれない。
                 「……ヒカリちゃんたち、帰ってきちゃうよ」
                 熱っぽい声でかすれる様に、目を少し彼の顔から逸らして囁いた。頬が染まった彼には触れず、でも彼から離れないそんな位置で囁く。どっかの映画であったわ、こんなシチュエーション。
                 彼が急に顔を伏せ、キャスター椅子の無くなった机の下にしゃがみこんで手招きをする。おいで、おいでと。不審で突飛な行動に机の下を覗き込んで訊ねる。彼は無言で顔を伏せたまま手招きを繰り返した。
                 「な、何よ急に……おなかでも痛いの?」
                 私の体がすっぽり机の影に入ってしまう。薄暗い闇の中に小さく縮こまりながら招く手がすうっと溶けて、思わずもう一歩踏み込んだのが間違いだった。
                 「――――――痛いのは胸です。どきどきして止まらない」
                 もうあのころの声じゃない。一言一言のすべてに私を惑わして痺れさせる毒を抱えている。闇から伸びた手が私を抱きしめて捕らえた。一瞬強張った自分の身体が、まるでオーブンの中でチーズが蕩けるようにゆっくり体重を預ける。
                 「……治してあげよっか」
                 圧し掛かるように押し倒し、脇の下と胸に温かい手をついて彼を見下ろしている私の顔は今どんなのだろう。長いまつげも鈍く光る唇も、さらさら流れる大きくカールした髪も、どれもこれも自信があるわ。
                 「是非」
                 穏やかな速度で合わされた唇がぬるぬると何度も角度を変え、深さを変え、彼を侵食する。ゾクゾクと熱に浮かされた背筋が甘く痛み、頭痛に似た血液のめぐりがこれが夢でないことを私に教えた。
                 「…………こーしろーの、えっち」
                 唇を離して笑った顔を出来る限り挑発的に飾ったつもりだけれど、赤く染まっていてひどくいやらしい、と思う。
                 もしそれを光子郎くんが口に出したら、きっと私怒鳴りつけてたわ。

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                 「あれ、光子郎さんとミミさんは?」
                 男の子の声がして正気に戻った私が、慌てて折った腕を伸ばそうと力を込めようとしたのがまさかあらかじめ解っていたのかしら。阻止され抱き潰すようにもう一度彼が腕に力を込めた。
                 もしあのころ、あの頃なら、腕の長さだって身長だってもちろん力だって、負けはしなかったはず。振りほどいて抜け出すのなんか簡単だったに違いない。
                 「ドア開けっ放しでどこいったんだろう」
                 耳を当てている胸に打たれる規則正しい鼓動の早さは、いつか触れた時と似ている。ガラガラと引き戸が閉まる音を最後まで聞いてようやく痛いほど締められていた腕から力が抜けた。
                 「……タケルくんに悪いことしましたね」
                 耳のすぐ傍で彼の声が聞こえる。それがゾクゾクと背筋に電気を走らせるというのに、靄掛かった頭だか胸だかはなんだかすうっと冷めてしまった。
                 「もういいでしょ、離して」
                 「やです」
                 「や…やですって……」
                 「だから離すのが嫌だってことです」
                 「あのねぇ、ここ学校なんじゃなかったの」
                 「でも嫌です」
                 「――――――デジタルゲート、ほったらかしにしてらんないんでしょ?」
                 「……もしかして、妬いてます?」
                 「ふん、パソコンになら妬き飽きちゃったわよーだ」
                 力が抜けた腕から立ち上がるのは容易かった。闇のはびこる机の下から抜け出して私は髪をかき上げる。背中でため息をつきながら彼が立ち上がる気配がしたから、そっとその場を離れて元居たパソコンの机に着く。
                 「20分です。今から20分で全部閉じて見せます。そしたら」
                 同じように席に戻り、視線も厳しくモニターを睨みながら彼はすこしだけ言いよどんだ後、小さな声で言った。
                 「……ミミさんの気に入るお風呂に行きましょう」
                 大きなデスクトップパソコンの陰で顔が見えない。……変わってないんだから、パソコンを盾にする癖。

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                 ひどく寒くてほの暗い、自由の利かない水の中に沈んでゆく夢を見た。
                 その場所は静かでなにもなく、絶えず揺らめいていて考えがまとまらない。ただ寂しくて形のない不安が渦を巻いている、そういう場所の底にじわじわと沈んでゆく夢。
                 それは後からデジモンが見せた世界だったと聞いたけれど、私はそれが荒唐無稽な現実でない世界だとは到底思えなかった。どんどん子供に戻ってゆく自分の手、あんなに長くてスマートだったかわいい足が短くなってゆく。
                 “幸せだったあの頃に戻りたい”
                 そう願ったデジモンがその後どうなったのか、私は怖くて聞けなかった。
                 「バスタオル、ここに出……ミミさん……居ますよね?」
                 バスルームのドアの向こうにいっそう深い人影が横切ったのを視界の端に認めたけれど、それに返事は返さない。
                 「電気消えてますけど、つけましょうか」
                 おずおずとバスルームの中に篭って低く響く声が湯面を振るわせる。
                 「……返事をしてください。電気、つけますよ」
                 お湯がぬるくなっているのか、湯面から突き出している首筋にぞくぞくと寒気が走った。まるであの時みたいだと頭のどこかが勝手に思う。
                 生まれて初めてキスをしたのは小学校の校門の前。
                 最初のキスは意地悪だった。モチモンに会った事を自慢するように話す彼が憎らしかった。もう二度と開かないはずの扉の向こうから僕を心配してきてくれたんだよとはしゃぐ彼。悔しくて羨ましくて、腹立たしかった。
                 一人でアメリカに行かなきゃならない私じゃなくて、どうしてあなたばかり。
                 だからファーストキスを奪ってやった。ざまぁみろ、これで私のことが忘れられなくなるわ。これで今日の事を思い出す度にモチモンの事を思い出さなきゃならない。ざまぁみろ、ざまぁみろ、ざまぁみろ。
                 ぱちんと音がして明かりが灯った。湯面にランタンの形を模した照明がきらきら光を放つ姿が映っている。その隣には睨んで可愛げのない自分の顔も。
                 ミミちゃんどうしたの、いやな顔して。頭の中でそう声を掛けたけれど、もちろん湯面に映る私は何も答えない。
                 「ばかね、そんな顔したらこーしろーくんが怖がっちゃうじゃない」
                 湯面に映る私は唇だけぱくぱくと動かして何かを言う。
                 その時、バスルームのドアがゆっくりと開いた。

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                 「あの……ミミさん…湯あたりでも起こしました?」
                 ちらりと視線を走らせると、背中を向けた赤い髪が扉の隙間から少しだけ覗いている。
                 「なんか気分悪いの、湯船から立てない」
                 「もう、長湯してるからですよ」
                 「引っ張り出して。お願い」
                 「ひ…引っ張り……って……」
                 彼が何かを述べつく暇もなく私はゆっくり湯の中に顔を沈めた。じわじわぬるい湯が頬を登っているような錯覚は、いつも忘れてしまう眠りに落ちてゆく最後の記憶のよう。
                 ずぶずぶ埋没して、ぬるい湯の中で息が出来ない。花びらが舞うように昇っていく気泡がふっと影に飲み込まれて見えなくなったと思ったら、ものすごい力で引っ張り上げられた。
                 「なにバカやってんですか!」
                 怖い顔で怒鳴られても、まだ頭の奥が低く静かに痺れて煩わしい。
                 「せっかく着替えたのに……ほら、自分で立ってくださいよ。小さな子じゃないんですから」
                 軽々と持ち上げられた自分の身体は、彼と同じ身長だった。目線のすぐ下にあったつんつん頭はもうどこにもない。赤い髪はきれいに整えられて短くなっている。
                 私はそれがなんだか無性に悲しくて寂しくて、引っ張り上げられた腕にしがみ付いて泣いた。
                 「ちょ、ちょっと……!」
                 ぽたぽた滴る冷めた湯が彼の肌触りがいいパジャマに吸い込まれて歪んだ斑点をつくる。髪の先から流れた水滴はまるで涙のようで、私はますますわけもわからず悲しくなる。
                 会う度に身長が伸びて、会う度に触れられる力が強くなって、会う度に私の知らないあなたが居るの。
                 ある日突然、私の見知らぬ泉光子郎になっているかもしれない。
                 「何がそんなに悲しいんですか」
                 「わかんない」
                 「嫌な事でもあったとか」
                 「わかんない」
                 「……とにかく上がりましょう。二人とも風邪引きます」

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                 バスタオルでもみくちゃにされて服を着せられ、髪をドライヤーで無造作に乾かされた。拾ってきた犬みたいだ。
                 ときどき声をかけながら様子を窺われて髪を櫛でとかされ、私はそれでも身体に力が入らない。借りた彼のパジャマの袖や袂がだぶついていて、尚更気分が落ち込む。
                 「帰国していきなり徹夜ですからね、疲れが出たんですよ。さっき両親から電話があって、帰ってくるのは明日の昼過ぎになるそうです。ディアボロモンのおかげと言っては不謹慎ですけど」
                 ドライヤーのコードをくるくる巻き取り、バスタオルを大雑把に畳みながら部屋を出てゆく。隣の部屋でごそごそと音がして彼が戻ってきた。
                 「ゆっくり寝て、起きたら元気になりますよ。ミミさんはこの部屋で寝てください、ぼく両親の部屋で寝ますから」
                 ドアの向こう側に立って廊下の向かい側の部屋を指差したのだろう、少し身体を回転させようとした仕草が癇に障って、私は思わず声を上げた。
                 「なにそれ!せっかく一晩一緒に居られる滅多にないチャンスなのになんでそんな意地悪ゆーのよ!」
                 「い、いじわるって……いや、だって疲れてるんでしょう?」
                 驚いた顔をして彼が回転させかけた身体をドアの隙間から滑り込ませる。
                 「疲れてるわよ、だから一緒に居たいんじゃないの!どうしてわかんないのよ!」
                 「だ、だって……一緒に居たらもっと疲れるじゃないですかっ!」
                 ドアを閉める事も忘れて同じようなレベルで、でも少し顔をそむけて彼が声を上げた。
                 「ひっどーい!こーしろーくんは私と居ると疲れるっていうの!?」
                 「……ある意味凄く疲れます。そばに居るのに触れられないのは拷問に近いですから」
                 ぱたん、と軽い音がして彼の後ろ手でドアが閉まる。
                 「…………私に触りたいの?」
                 「だって、こうして二人きりなの半年以上ぶりだから」
                 ドアの前から彼は動かない。相変わらず私の顔を見ない。
                 「どうしたい?」
                 「甘えたいです。抱きしめたいです。思う存分ミミさんに触りたい」
                 「……イヤだって言ったら?」
                 「…………悲しい……」

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                 重苦しいようやく搾り出し低い声で、そう唸られた。俯けられていた顔がぐっと上を向いて、自分で分からない盲点も何もかもを居抜くようにしっかりとした迷いのない視線が向けられる。
                 「どれくらい?」
                 それは見た事もない彼の顔で、恐ろしくさえあったけれど……逸らしたり出来なかった理由は恐怖ではないと思う。
                 「胸が裂けそうなくらい。涙が出るくらい。世界が終るくらい、かなしい」
                 私はベッドの下から動かない。立ち上がりもしない。小さく呟く彼に歩み寄る事もしない。
                 「……私、夏が来るたびに思い出すの。自分の影で消えてしまう小さな影とか、頭一個分下にあった頭とか。
                 でもこんなに大きくなってしまって、力だって、足の速さだって、もう敵わない。あんなに小さくて頑固でしょうがない子だったのに、目の前に私の知らない“泉光子郎くん”が居るの」
                 春先と言えど、夜はそれなりに冷える。ぬるいお湯の中にずっと浸かっていた私の身体には尚更寒さがしみた。
                 「じき中2の男ですからね、背も伸びますよそりゃ」
                 彼が済まなさそうに身を縮めて見せたのは皮肉だったのかもしれない。お世辞にもスポーツマンとは言えないけれど、ひ弱で頼りない印象は持てない身体は記憶にある彼よりずっと凛々しいのだ。
                 「いつの間にか同じ身長になってて……いつの間にか追い抜かされて……やだな。
                 力も強くなって勉強もして……それが当たり前だしそれが自然なのよね。……でも嫌。寂しいじゃない、みんなでいつまでも一緒に居たいわ」
                 “幸せだったあの頃に帰りたい”“喪なわれた時間を取り戻したい”こんな理不尽な願い事を叶えてくれる神さまが居ないことは、そう願う人間なら誰でも知っている。
                 「……やっとミミさんに身長が追いついて、ミミさんが振り払っても逃がさないように出来る力がついて、ぼくは嬉しいですけどね」
                 手が大きくなる。首筋が逞しくなる。どんどん身体が変わっていく。私の知らないあなたになる。
                 「キスをするのに女の子に屈んでもらわなきゃいけないなんて、ぼくは嫌です」
                 「お風呂から人間の身体を引き上げるくらい強くなっちゃった“泉光子郎くん”なんて私嫌いよ」
                 きっぱりとした声にきっぱりと言い返す。寒々とした蛍光灯の光がじりじりと肌を焼いているような気がした。
                 たった2、3メートルしか離れていないはずなのに、どんなに手を伸ばしても彼にたどり着かないのではないだろうかという錯覚に陥るくらい遠くに感じる。息遣いの聞こえてくるほどの距離だと言うのに彼の何も見えない。

                9
                 黙っていた彼が意を決したように私の目を見据えて口を開いたのは、それからしばらく経った頃だった。
                 「ミミさんは知らないかもしれませんけど、ぼくは小学4年生の夏休みまでほとんど友達と呼べる人が居ませんでした。もちろんサッカークラブの時もです。
                 無意識に人と関わるのを避けて、結果パソコンにはまったり、こんな喋り方になったんだと思います。
                 パソコンに向かってるぼくにミミさんは難しい事を色々考えてると言ってたけど、本当は違うんです。考えたくない事とか人と関わる痛いことや苦しいことを考えなくて済む。ずっとディスプレイの向こう側に逃げてただけなんだ。」
                 少し言葉に詰まりながらも、迷いのない瞳は真摯で思いつめている。
                 「知ってますか?敬語というのは一度頭の中で文章を作ってからじゃないと喋れないんですよ。感情とか自分の考えを出さないようにブレーキをかけるからこんな喋り方になる。丁寧でも行儀がいいんでもなんでもないんだ」
                 微かに、でも確実に増えてゆく彼の言葉に宿る熱が私の心を捉えて話さない。
                 「あの頃のぼくは誰かと一緒に居る痛いことや苦しいことより、一人で居る寂しい事の方がマシだと思ってました。寂しい事は一人で紛らわしたり耐えたり出来るし、誰にも迷惑をかけないから。だから一人で居た方がいい、そしたら頭の中のことを全部決着がつけられると。
                 でもその考え方をミミさんが壊したんだ。痛いことや苦しいことは一人で治せても、寂しいことは一人じゃ治せない、色々考えるより動いてみなきゃ解らないことがある、知りたいなら怖がらずに触れてみればいい」
                 ぼくを変えたのはミミさんなんですよ。彼はそう言った。私の目を見据えて、彼の言葉で。
                 「ミミさんに触れる力が変わっても、触れる手はぼくの手です。どうか怖がらないでください。可能な限り、許可を取ってから触れるようにしますから」
                 一歩、光子郎くんの足が歩みを始めた。ゆっくりした動きは怖がる動物に近付く飼育員のようで、なんだか心外だった。
                 「ぼくは触れたいんです、ミミさんの…全てに」
                 カーペットに膝をついてそのまま私の足から4センチだけ離れた膝を動かさず、彼はそっと手を伸ばす。
                 「背が伸びたぼくが嫌ですか?力が強くなったぼくが嫌ですか?ミミさんの知らないぼくが嫌ですか?
                 ぼくは髪を切ったミミさんも好きです。英語で怒鳴るミミさんも好きです。ぼくの知らないミミさんに会うのが楽しみです。
                 ぼくたちは日本とアメリカで別々の時間を暮らしているけど、同じように14歳になるんです。」
                 伸ばされた手は慎重に私の手のすぐ傍に下ろされ、待っている。
                 「パルモンだってそうです。みんな同じ時間を暮らしてるんです。誰も置いてけぼりになったりしません。」

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                 彼の手が私の手を待っている。私の手が動くのを待っている。でも私の手は動いてくれない。……どうしても。
                 「一年前の事件覚えてる?アメリカのデジモンが私たちを捕まえたじゃない。
                 あのデジモンの気持ち……今なら…ううん、あの頃も分かってた気がする。
                 パルモンに会いたくて、でも自分のデジヴァイスじゃもう会えなくて。デジタルワールドに自分は必要ないんだって思ったら悲しかった。
                 こーしろーくんはテントモンに会えなくて寂しい?」
                 「当たり前ですよ。何度もパソコンにデジヴァイスを翳しました。ゲートを探して何度も徹夜しました」
                 ふっとはにかんだ光子郎くんの顔は何処かしら照れていて、それなのに意志ははっきりと見て取れる。
                 「私きっと選ばれし子供じゃなくなっちゃったんだわ。純真の紋章だってもう光らない。
                 大人になんてなりたくないって思った時から、お台場から離れる事になったあの時から……もう私何も救えないんだわ。大人だけが思うのよ、大人になりたくないなんて……」
                 「それは違います」
                 光子郎くん必殺の断定形が部屋に響いた。
                 「この世界は救えなくとも、ぼくの世界を救ってくれたのはミミさんです。人間を一人救うのは地球を救うのと同じくらい難しいんですよ。……まあ、ミミさんは救うだけじゃなくていろいろ無理難題も持って来てくれますが……」
                 笑いながら頬を掻き、それでもぼくはあなたが居てくれて良かったと思ってます、と締めくくる。
                 「私のこーしろーくんはもういないのね……私が“光子郎くん”のミミになっちゃったんだわ」
                 強い意志を持つ彼が眩しくて羨ましくて、泣けてきた。もう彼に私の助けは必要ないのだ。私を引っ張りあげられるくらい、私を叱れるくらい、彼は強くなったのだという事がうんざりするほど理解させられたから。
                 「“光子郎くん”、私をおいてかないで」
                 自分でも何を言ってるのかよく解らない。でも、ただ自分が取り残されている事はわかる。ままならない自分の心が疎ましくて情けなくて、涙が溢れて止まらない。たまらないほど恥かしくてやめたいのに止まらない。
                 動かない私の手にちょっと冷たい手が添えられる。それに驚いて涙でドロドロになっているだろう最悪の顔をふと上げた。そこには困り果てて眉を下げた光子郎くんの顔がある。
                 その顔はぎこちなく唇を動かして、照れくさそうに微笑んだ。
                 「ぼくのものにならなくていい。だけどぼくのこと忘れないで」

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                 「ぼくは他のなんにも一番じゃないけど、ミミさんを好きなのはぼくが一番のはずです……今現在」
                 あ、いや、もちろんご両親を入れたら3番目だとは思いますが、その、なんというか、ミミさんを女性として……口ごもりながら頬を赤くして光子郎くんが必死に小さな声で訴えている。
                 「こ、こんなことを言う資格はまだ無いのかも知れませんが、敢えて、敢えて言いますと……」
                 ……あ、愛しているんだと思います。
                 小さな、でも曇りのない彼の、声。
                 「もっもちろん!これは別に相互的要求を押し付けようとしてるのではなく、ミミさんを拘束しようとかそういう意図があって言ったんでもありません。
                 ……世界中の誰からも見放されたと思ったっていい。ただ、忘れないで欲しいだけです。例え君がぼくを嫌いになったって、ぼくは君を絶対に見捨てたりしないってことを。」
                 彼はそう言ってしばらく黙った。私は動けず、ただ涙を拭うだけ。
                 「身体に触れてもいいですか?」
                 「……うん」
                 短く返事をしたら、涙で熱に浮かされた頬に冷たい彼の指先が滑った。
                 「抱きしめてもいいですか?」
                 「うん」
                 涙はまだ流れている。でも嬉しくて、なのに悲しくて、光子郎くんの肩が私の腕にぶつかって抱き止められて、それはなんだか随分久しぶりなような気がして……胸が詰まる。
                 やっと、やっと。
                 帰ってきたんだと実感がわいた。自分の居るべき場所に、自分の居たい場所に。
                 ぐりぐりと顔を押し付ける彼の首筋は懐かしくてくすぐったいのに落ち着くいい匂いがして、また涙が出てきた。
                 抱きしめる腕の強さと抱きしめられる腕の強さが、私の欠けた部分に吸い込まれるようにぴたりとはまって修復していく。寂しくて壊れかけていた私を。
                 ……とか、一人で浸ってたら唐突になんだか急き立っているような光子郎くんの声がした。
                 「キスをしていいですか?」
                 ……このばか。

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                 「いっ……ちいち訊かなくていいわよっ」
                 くっと顎を引いて離れる私の唇を追いかける彼の仕草が、ひどく男っぽくて心臓が跳ねた。
                 「了解を取ってからじゃないと触らない約束ですから」
                 浅く、子犬が舐めるように舌を滑らせるしぐさが余裕たっぷりに思えて少し癪だった。
                 「パジャマ脱がせていいですか?」
                 「……な、なに言ってんのよ!」
                 相変わらずデリカシーもへったくれもない台詞。私は慌てて力の抜けていた全身に危険信号を送る。
                 「じゃあパジャマをずらしていいですか?」
                 力を込めて光子郎くんの腕から逃げようと足掻くのに、それが無駄なことだと知りたくないのか、それとも本当は逃げたくないのか、まともに力が出ない。
                 「嫌ですか、いいですか返事をしてください」
                 「いやよっイ・ヤ!」
                 「じゃあパジャマの上から触っていいですか」
                 彼の低く研ぎ澄まされた声が空気を震わせる。その振動で頭の奥がしびれておかしくなる。
                 「いいんですか、悪いんですか返事をしてください」
                 「いやよ……だめっ!」
                 必死で絞り出す悲鳴がちっとも緊迫感がなくって……自己嫌悪より先に出たみっともない声が期待に震えていた。
                 「じゃあ自分で脱いでください。これ以上は譲歩出来かねます」
                 「なんなのそれー!」
                 「泣いてるミミさんを見て欲情してしまいました。責任を取ってください」
                 「真顔でなに言ってるのよバカッ!あっやっ触っちゃだめー!」
                 「最初に了解をとってますよ、身体に触れてもいいと」
                 「だって、あっ……そんなんじゃ…やっ!ばかばかばか!きらい!こーしろーなんかきらい!」
                 「パジャマを脱がせる許可が降りなかったのは残念ですがこういうのもいいかもしれません」
                 「や、だ…きらい…もう、離してぇ…よぉ……」
                 「イヤです。却下します。聞き入れられません」

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                 光子郎くんの右手の中指は緩急つけて執拗に私のビキニラインを擦る。何度も何度も、まるで嘲笑うかのように蕩けるようなストローク。
                 「あっあぅっ…あっ触っちゃいやぁァ……」
                 「そうですか?その割に逃げませんね。両手が自由なんですから押し返してください。そしたら離せますよ」
                 「ああ…っ!………っ…むりよぉ、ちから、ぬけちゃう…もん………」
                 「ミミさんの言葉は難しいです。“イヤ”が“いい”で“嫌い”が“もっと”みたいですね。
                 ところでパジャマの中に手を入れてもいいですか?」
                 「いや!だめー!禁止禁止禁止ー!」
                 「いいんですね。じゃあお邪魔します」
                 「聞けーっ!イヤっつってるでしょーが!」
                 「分かってますよ。だから“いい”んでしょう」
                 「違うっ!禁止!だめ!ノーセンキューよっ!」
                 「だったら逃げてください。力づくでぼくを殴って離れてください。じゃないと止まりません」
                 冗談めかした言葉尻とは全然違う黒目がちの瞳が深く沈んでいた。
                 「でっ出来る訳ないでしょそんな事!」
                 慌てて伏せた視線を追いかけるように、彼のひずむ語調が先細りに消えてゆく。
                 「本当に嫌だったらやめます。でも自分で止める事が出来ないんです。だからぼくから逃げてください。」
                 彼が覆い被さっていた身体を引き剥がし、背を向けた。
                 ……んもう、相変わらず面倒な男だなぁ……
                 私はベッドから起き上がり、手櫛で髪を梳かしてパジャマを調え、もう一度ベッドに仰向けに倒れると、スプリングがぎしぎしと軋む。
                 「……み、ミミさ……」
                 背中越しに引きつるうめき声を上げたおバカさんに大サービス。
                 「“嫌い”して“イヤ”よ」
                 まるで叱られた子供が母親の顔色を伺うかのような慎重さでのろのろ振り向いた光子郎くんの顔は、困ったような嬉しいような、とってもムツカシイ表情をしていた。

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                 光子郎くんは本を読んでいる。
                 「何度いきました?」
                 私はその隣で彼の方にもたれかかっている。肩を掴み、袖を引っ張り、彼のシャツはしわだらけ。
                 「さん、かい」
                 光子郎くんの目は本に釘付け。殺し続けている吐息に酔っている。
                 「いつもそうやって何回もいくんですか?」
                 私の目はとろんと蕩けている。息が続かなくて胸が苦しい。
                 「いかない」
                 光子郎くんの左手には緑のコントローラー。右手には難しい本。
                 「じゃあどうしてそんなにいくんですか?」
                 私のスカートのすそから伸びるコードの先につながっているのは暴れ狂うベスパ。
                 「こーしろーくんがリモコン持ってるから」
                 会えないのを我慢している時みたいに寂しくはない。
                 「でもぼくよりローターがいいんでしょう?」
                 でも一番最初にこうした時みたいに頭がぐるぐるしない。
                 「ちがう」
                 とぼけているのか、それとも本当に気付いていないのか。
                 「じゃあどうして日本にまで持ってきたんですか?」
                 判らないだけなのか、判らないふりをしているのか。
                 「友達が……プレゼントって……空港で無理やり」
                 胸がふかふかする。スカスカ、というよりは詰まってる。ふくふく、というよりは頼りない。
                 しっかり握っている彼の手は汗だらけでドロドロして気持ちが悪い。なのに離そうと思えない。彼の指は開かれたまま、私の手を握ってはくれなかった。
                 「こんな物を女の子にプレゼントする友達がまっとうな人だとは思えませんけどね。……で、そのマイケル君とやらとはお付き合い長いんですか」
                 「……だからぁ……違うっていってるのにぃ……」

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                 「違わないでしょう。ご丁寧にカードまでついてます、“良い夢を!”ですって」
                 ぴし、と指で弾かれたカードが軽く微かな音を立てた。その音がいやに耳について離れない。
                 「だーかーらー、久しぶりに彼氏に会いに行くって言ったら友達に無理やり持たされたんだって何度言わせるの?……ホントにこーしろーくんが開けるまで中身知らなかったのよう」
                 下着の上からあてがわれている蜂の羽音。彼の指先ひとつで自由自在にバイブレーション。私はトガビト、彼はヒガイシャ。私はカガイシャ、彼はケガニン。
                 「とぼけてんですか?それとも本当に気付かないとか?」
                 まるで私の頭の中を覗いたかのように、意味のたがわぬ同じ言葉で彼が少し冷たい視線を投げかける。
                 「――――判ってないんですね、解りました。」
                 呆然とする私を一瞥し、ぱたんと閉じた本を脇に置いたと同時に彼はコードを手繰った。甘い振動を繰り返す悪魔の機械を左手の中指と人差し指の間に挟む。
                 瞬く間に舌に唇が当たった。蠢く唇と舌の粘膜が光子郎くんの唾液を潤滑液にしてなめらかに擦れる。私はこのちょっと偏執的でえっちなキスがお気に入りだった。それを彼に伝えた事はないけれど。
                 ……伝えた事はないけれど、光子郎くんが“する”と決めたときは絶対このキスをする。それに気付いたのは何度目だったか。
                 「んんっ!」
                 ムネの先端に添えられた左手から伝わる振動に身を縮めた私の顎を、右手が強い力で引き戻した。
                 「やっ……」
                 光子郎くんの両肩を押し返すように身をよじりながら左手を引き剥がそうとするのに、左手はゆるりゆるりとノンキに旋回などして、途切れ途切れに上がる悲鳴を堪能している。
                 「なんか手の動き方が変態っぽいー!」
                 「失礼な」
                 「あっイヤっ……くすぐったい!なんか!やだぁ!ヘン!」
                 「なって下さい。ヘンに」
                 にやりと笑んだ光子郎くんがローターのぬるぬるを拭った首筋から胸にかけて舌を這わせた。
                 「んもー!なんで意地悪ばっかすんのぉ!普通にしてよフツーに!」

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                 「…………フツウってなんですかね」
                 つい怒鳴った私の耳元で、いつもの落ち着いた声でない声がした。
                 「ミミさんはフツウを知ってるんでしょうか。他の誰かにフツウにしてもらったことがあるんでしょうか。
                 ぼくの知らない友達の話をするミミさん、ぼくの知らない選ばれし子供と戦っているミミさん、ぼくを嫌いだというミミさん、変わりたくないというミミさん、世界を救えないというミミさん。
                 今、言われてはじめて自分が変わってた事を知りました。」
                 私の首と肩にすっぽり光子郎くんの顔が収まってしまって、表情を窺い知る事はできない。
                 「全てを知る事だって無理なんです。光り輝く知識を無邪気に望んでたあの頃のぼくとは違うんだと、知りたがることを封じる賢しさを手にしてたんだと……気づいてまったぼくには……」
                 難しい言葉の懺悔は私にはよく解らなかった。ただなんとなく、私たちは同じ事で胸が塞がってるんだなと思った。
                 「本当は訊きたい、知りたい。解ったフリなんてしたくない」
                 「でも怖いのよね」
                 はっと息を飲む音が聞こえて光子郎くんの体が私から浮いた。
                 「なんだ、同じじゃない」
                 背中に回してた腕に力を込めて浮いた体を引き止める。
                 初めて告白をし合ったのは空港のロビーだった。
                 初めてセックスをしたのは確か目黒のホテルだった。
                 そして、今日初めて光子郎くんの部屋で朝まで一緒に居られる。
                 嬉しいはずなのに、パソコンルームの机の下で抱きしめられてから、少し私は気分が沈んでいた。この憂鬱はすぐにアメリカに帰らなきゃいけないとか、そういう種類の寂しさとか残念さとかから来るものじゃない。
                 変わってしまうことが恐ろしかった。自分の知らない自分になっていくのが怖かった。見知らぬ彼に戸惑っていた。
                 「ねぇ、こーしろーくん」
                 「はい」
                 「いつか京ちゃんたちも私たちみたいにデジタルゲートを開けなくなって、こんな思いをする時が来るのかしら」
                 「来るでしょうね。
                 デジタルワールドというのは、本来は存在すら知りえないはずの場所なんです。ぼくたちはたまたま呼ばれて、たまたま向こうに行っただけのいわば旅行者ですから」

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                 「偶然、すれ違っただけってこと?」
                 「基本的に異界ですもん。
                 でもこうも言えますよ。無いはずの世界を垣間見ることを許された時間があった幸運な人間」
                 耳元でささやかれる声にもう硬さはない。
                 「ぼくたちは短い間でも掛け替えのない親友を持てた。例えもう会えなくなったとしても、パルモンもテントモンも、デジタルワールドで平和に暮らしていることを知ってる。こんなに幸運なことはそうそうありません」
                 ゆっくり持ち上がって行く彼の重さを、私はもう引き止めなかった。
                 「もう二度と会えなくても」
                 いつか必ずそんな日はやってくる。それに気付かないほど子供じゃなくなってしまったのだ。永遠を信じられるほど強くない、大人に。
                 「例え彼らの姿形を忘れてしまっても、ミミさんが今のミミさんになるにはパルモンが居なくちゃいけなかったという事実は残ります。誰も覚えてなくても、何もなくなりません」
                 光子郎くんのそれは、まるで自分に言い聞かせているみたいだと私は思った。声にやどる憂鬱は拭う事も消す事も、きっと誰にも出来ない。
                 「忘れてしまっても、ミミさんの中にパルモンは生きています。だから寂しくなんかないんですよ」
                 ベッドに押し付けられている彼の腕が、手の平が、スプリングを悲しげな音で軋ませる。
                 いつの間にかベッドの端へ追いやられた光子郎くんの本が視界に留まり、シーツを少しだけ引っ張って手繰ると、本が無粋な音を立てて床へ落ちた。
                 ねえ光子郎くん、私ほんとはこんな事する人間なのよ。ワガママで、ずるくて、やきもち焼きで、もう純真の使徒なんかじゃない。……こんな思いを、京ちゃんもするのかしら。……汚い自分に気付くのかしら。
                 「いつかこうしてこーしろーくんと一緒に居たことも忘れちゃうのかな」
                 「そうならない様にお互い努力しましょう。ぼくたちは異界の友人じゃない。会おうと思いさえすればいつでも会いに行けます。会いに行きます」
                 この言葉もきっと変わっていってしまう。いつかの淡い思い出になるんだろう。
                 「うん、待ってる」
                 お互い笑った顔に嘘はない。なら変わってしまっても大丈夫、きっと何も失くならない……と、思う。

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                 はあはぁ途切れる息が恥かしくて切ない。
                 「パジャマ、よごれちゃう」
                 「いいです…たくさん汚してください」
                 ボタンの隙間から進入してくる熱っぽい指が何度も何度も嬲るように先端を転がしている。
                 「あっあっ……やだぁ……それ、やぁ……!」
                 だぶ付いたズボンの上から震える機械を押し当てられて、背中で弾けている熱い溜息がどんどん汗ばむ身体を狂わせていく。抱きかかえられるように背を預けた彼の身体はとても熱くて、焼き切れそうな自分の頬がその熱に呼応する。
                 クローゼットの前に置かれていた姿見に映っている。絡まっている光子郎くんの足が、痙攣しながら閉じようと必死な私の足を無理に開かせているのが。
                 「もうイヤだって言っても逃がしませんよ。もっとしていいって、言ったじゃないですか」
                 少し弾んだ息に混じる悪戯っぽい声。湿った肌が背筋と首筋を確かめるように辿る指に震える。
                 「電気、消してくれたらって付け足したのにぃ〜」
                 「だってちょっとでも離れたら逃げちゃうんですもん」
                 耳元、首の付け根に唇が這う。舌がゆるい円を描くように深く浅く突き刺さりながら嬌声を無理矢理引っ張り出した。
                 「違反懲罰は当然受けるべきです……それとも、もっと別のペナルティがいいですか?」
                 もっと別の、という声がこれ以上ないくらいに妖艶で禍々しく、背筋がそそけ立った。光子郎くんがこれほど嬉しそうな声を出すのだ、どんな無理難題を言い渡されるのか解ったものではない。
                 「あっ……ぅ……いい、電気、がまんするぅ……んぁっ!」
                 中指がパジャマごとゆるく突きたてられて、思わずしがみ付いていた彼のズボンの裾を強く引き締めた。
                 「おっぱい、おっきくなりましたね」
                 「……誰かさんがいぢりまわすから……あっあっいっ!」
                 いつの間にか両腕が脇の下から生えていて、指がまるで一本一本意思を持っているかのように蠢き、揉みしだかれていた。
                 「いや…いやぁ……なんか上手くなってるぅ〜」
                 「あの特訓の成果ですかね」
                 「……なっ!?」
                 どこで、誰の、いつ、何故、どうして。一気に全ての言葉が我先に出ようと唇の裏で大渋滞を起こしているのを、満足そうに眺めた彼がゆっくり言葉を続けた。

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                 「太一さんがだいぶ前におっぱい玉という液体入りのボールをプレゼントしてくれまして。」
                 なんか和むんですよ、アレさわってると。弛緩していく私の身体を確かめ、光子郎君は勝ち誇ったようにニヤニヤ笑い。
                 「〜〜……い、いったいどんだけ寂しかったのよ?」
                 「それはミミさんが今解ったでしょう」
                 ヤラレタ。もう搦め手で反撃する要素なんか残ってない。……なら正攻法だ。
                 「――――嫉妬させて面白い?私は面白くない。人を突き放してしか愛情を量れないなんて貧しいわ」
                 「別に量ってませんよ、これはいじらしい仕返しです。短いメールに毎回毎回よくもまぁマイケルマイケルと煽ってくれたもんですよね。
                 ミミさんはみんなの前に居る、よそ行きの冷静参謀泉くんが必要なんですか?」
                 「……ほんと、意地悪。ぜーんぶ私に言わせないと気が済まないんだから」
                 「いいえ、意地悪じゃありません。単なる“ズルい男”です」
                 するするとパジャマのズボンに手がかけられ、子供のように片足を持ち上げられたまま手際よく下着ごと脱がされる。
                 「すごい……見えますか?」
                 赤く濡れそぼったそこが今まで見たこともない程大きく開かれ、添えられている彼の決して白くない指の白さが際立っていた。
                 「やああぁ!ばかっイヤっいやぁあぁ!」
                 「イヤじゃないからこうなったんでしょう?」
                 「やぁ、もう、ゆるして……見せないで……はずかしいよぅ……」
                 「さっきからずっと“悪さ”してましたからね……許しましょうか?」
                 「……ゆるすって、電気消してくれるってこと?」
                 「電気を消して、布団被って、別々の部屋で寝るって事です」
                 「〜〜〜〜〜〜っ!」
                 「……いじわる、して欲しいですか?して欲しくないですか?」
                 嬉しそうに、私の拒否権を弄ぶ光子郎くんの目の奥に潜む揺らめく闇。調子に乗って、甘えて、最後の最後にこうして上目遣いを気付かれないように縋るんだ。
                 『許してくれますよね?』
                 ――――――ほんと、ズルい男。

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                 許してあげるわ、ズルくて卑怯で意地悪なあなたを。だから同じ私を許して……なんてのは、いけないお願いかしら。
                 「……して、いじわる、いっぱいして……」
                 私の小さな悲鳴に嬉しそうな顔をした彼がぬるくて深いキスをくれた。
                 蒸れた汗だらけの背中は彼のにおいを脳に刻み付ける。ずるずる滑る唇にときどき当たる歯の凹凸、もどかしげに弾む彼の鼻息、必死に私の舌を探る彼の舌。擦りつけるようにしがみ付く彼の腰。その全てが悩ましげですこし可笑しい。
                 「ローター、気持ちよかったですか?」
                 「……んもう、またその話!?」
                 「だって、三度もいくなんて」
                 「あんなキカイより、こーしろーくんの指の方がひゃくまんばい!きもちいいわよっ!」
                 「そりゃぁ、いいこと聞きました」
                 あんなに必死の形相でしがみついてたくせして、手に持ってる白色の箱ときたら。
                 「……なにそれ」
                 「避妊フィルムです」
                 「それ、どーゆーものだか知ってて出してるのよね」
                 「ミミさんこそこんなクラシカルなもの良くご存知で」
                 「……アメリカではまだ主流なのよそれ……」
                 「へー、耳年増ですね。それとも――――」
                 使用経験でもあるのか、とでも言おうとしたのだろう。ぎろりと睨んだ私がその先を牽制しなければ。
                 「何度言わせれば気が済むの、そんなに信用がないの、どれだけ独占欲が強いの、どんなに疑えば……落ち着くの?」
                 悲しくなるより先に情けなくなってがくんと肩を落とし、そう嘆くしかなかった。
                 「こーしろーのばか!あたしだって不安なんだから!京ちゃんとか空さんとかヒカリちゃんとかクラスの女子とか!
                 何で私は嫉妬しちゃいけないのよ!こーしろーばっかずるいじゃない!ワガママは私の専売特許のはずなのにィ!」
                 我慢してばっかりなんてもうやだぁ!全ての手札を失った私は声を上げて泣くしかなかった。
                 「こーしろーのばかぁ〜もうミミ大人のフリすんの疲れたー!飽きたー!
                 甘やかしてよーわがまま聞いてよーぎゅってしてー意地悪ばっかしないでー!」
                 天井に向かってあげる私の悲鳴に、彼は何故だかホッとした顔で笑っていた。
                 「……やっと帰ってきましたね。おかえりなさい、ミミさん」

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                 「緊張しすぎです、ミミさんらしくもない。」
                 頭を抱きかかえられるのがすき。胸の中に抱きしめられるのがすき。少しせわしないあなたの鼓動を聞くのがすき。
                 「大人になりたくないなんて馬鹿なこと言うから心配しました。
                 ……一人ぼっちな気がして寂しかったんですよね。心配かけないように平気な顔してるの、疲れますもんね。」
                 ぐすぐす啜り上げる音さえ安心している。この人の匂いがすき。この人の声がすき。この人の体温がすき。
                 「ミミさんもぼくもまだ子供です。……まだ子供でいていいんですよ。少なくとも、お互いの前では」
                 「……子供でいていいの?……ほんとに?」
                 「――――――あー、場合にも寄りますがー、基本的には。」
                 「場合?」
                 訝しげに眉をひそめる私が身を乗り出すと。
                 「例えばこういう時は子供だと困りますよね」
                 照れくさそうに白色の箱の端っこを摘み上げる彼がひどく子供っぽい気がして思わず笑った。
                 「たまには違うの買ってみようと思ったら取り違えました。慣れない事するとダメですね」
                 「うそ。ほんとはちょっと生でしてみたい、とか思ったんでしょ。解るわよ。同じだもん」
                 白い箱を取り上げ、ビニールを破る。小さなパッケージを裂いてフィルムを取り出し、説明書を熱心に読んでいる光子郎くんに渡した。
                 「ちょっ……単独使用の場合避妊率60%!?……こんなの避妊具と言えますか!?」
                 「正しく使えば大丈夫よー。友達が中で出さなきゃ完璧って言ってたし」
                 「そんなあやふやな情報を信用できませんよ!生なんて絶対ダメですからね、今日は諦め……」
                 そこまで言って彼は黙った。これ以上の無粋を並べ立てる野暮天ぶりを発揮するなら殴られる、と気付いたのだろう。
                 「……はいはい……ちゃんと隠してます、予備のゴム」
                 ため息一つ付いて光子郎くんが白状し、説明書を手放した。
                 「さっすが抜かりは無いわねダーリン」
                 ウインクも大仰に投げキッスを振りまく私に向き直り、細く折りたたんだフィルムを中指に被せるように持ち、太陽のようなまぶしい笑顔で、彼が言った。
                 「でもせっかくだから使いましょう。足、開いてください」

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                 「……は?」
                 正気に戻るタイミングがあと数瞬でも早ければ、足首を持ち上げた手を振り払えたのに。
                 「避妊フィルムは子宮口に置いてこなきゃいけないんですよ」
                 淡々と私の足を肩に担ぎ、大きく開かれた太もものその奥が露わになる。
                 「あ、知ってると思いますけど、このマンションあんまり大きな声出すと隣に聞こえますからね」
                 その衝撃の告白に声が出そうになったけれど、必死に悲鳴を飲み込んだ。
                 「……こんなにぬるぬるにしたらフィルムが途中で溶けちゃうじゃないですか」
                 しょうがないなぁ。聞こえたのはそんな声。目に映るのは見慣れない天井と、大きな本棚。茶色のクローゼットに、蛍光灯の輪が二つ。
                 「あーっあーっ……だめ、だめ、せめて電気けして……!」
                 視線を何処にやったらいいのかわからない。ぬるく這う彼の舌、ベタベタの内股に擦れる彼の頬。掴んでいるのはサラサラの赤い髪。くしゃくしゃになっている借りたパジャマ。
                 「いや……やぁ……おねがい、でんき……みちゃ、いやぁあぁ……ゆるして…っ…」
                 押し殺した叫び声とも喘ぎ声ともつかぬそれに答えは返ってこない。部屋にはただ“ぬるぬる”を舐め取っているささやかな音が響き渡るだけ。ときどき奥まで差し込まれる固く柔らかな熱い舌が、丁寧に、焦らすように、もどかしく、太ももまで“ぬるぬる”で軌跡を描く。
                 「切り上げたいのは山々なんですが、ぬるぬるが止まらないんですよ。困ったな」
                 薄く笑ったいやらしい作り声。
                 「あ、あたりまえじゃない!そんなとこ舐めたらよけい……!」
                 ひくひく痙攣を始めた自分の身体の主導権はもう奪い返せない。
                 「きもちよくて、ぬるぬるさせちゃう?」
                 「しっ知らない!知らない!もうこーしろーなんて知らないぃ〜!」
                 頭を必死に押し返そうとする両手首に、ふと光子郎くんの左手が掛かった。そのまま胸の前でぐっと固定される。
                 「――――――そんな薄情を言う人にはお仕置きが必要ですね」
                 持っててください。戒められた両手に降って来たのは、あの細く折りたたまれたフィルム。それを両方の親指と人差し指で掴んだ時、押さえ付けていた彼の手にぎゅっと力が入った。

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                 「〜〜っ!?」
                 いつもならオネガイしなくちゃ、恥かしい言葉で泣きながらオネダリしなくちゃしてくれないくせに。
                 「声……出していいですよ」
                 歯を食いしばって耐えている顔を覗き込んだ、こんな時だけしか見せてくれない悪い顔。私を苛めてる時にしか出てこないスケベでいやらしくて性格の悪い、黒光子郎。強気で傲慢で冷たい、悪光子郎。
                 「よだれ。また出てる」
                 右手の中指が“お口”のなかで折り曲げられ、私の一番弱いところを何度も、何度も、何度も、擦る。リズミカルに、強く弱く、自由自在の遠慮のなさで。
                 「ひやっあっあっあっ…!……いつも頼んでもしてくれないくせに!こんな時だけずっる…い……!ぃあ〜っ!」
                 「4回目はミミさんの大好きな“こーしろーくんの指”でいかせてあげます。優しいでしょう?」
                 「やだやだやだぁ〜ちゃんとしてよぉ〜!!」
                 「ヤダと言う割には指がちぎれそーですが」
                 「こーしろーのばかー!うあっ……もう知らないんだからーっ!」
                 「……また言いましたね。もう絶対このままいってもらいます」
                 「あっあっあっいやっあっ……うぁあぁん……いやぁ、もう、いや、おねがい、ちゃんと、ちゃんと……!」
                 「ペナルティが終ったら考えてもいいです」
                 「いやぁ、まって、まって…!ほんとに、またいっ…いっ……〜〜っ」
                 指、あの細い指。
                 キーボードを軽やかに渡る指。マウスを機敏に滑らせる指。
                 細い手。少し骨張ってる冷たい手。
                 私の頬をなでたり、握手をしたり、絡まって離してくれなかったり、寂しそうだったり、嬉しそうだったりする、手。
                 いつもパソコンが独り占めしているあの手が、指が、私の身体の中で蠢いている。
                 そう考えただけで背筋がゾクゾクして、胸がドキドキして、その指が埋まってるところが甘く痛んだ。
                 ため息が出る。詰まっていた空気が一気に爆発するみたいに唇から漏れた。
                 目の前が歪む。身体が弛緩する。重力が全身を支配する。弾みながら上下するパジャマの上にある両手を戒める彼の手がようやく視界に入っているような具合でしか物事を認識できない。

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                 力が入らない。立て続けに3度も4度もいくなんてことは普通じゃないし、昨日から徹夜で体力だってない。それは光子郎くんも同じハズなのに。
                 そういえばデジタルワールドでも一人異様に元気だったわ。知的好奇心さえ満足すればそれで体力回復しちゃう変態なのよね。好きな事さえしてれば何でも平気なのよ、周りの事なんてなーんにも見えなくなっちゃう人なのよ!
                 「……なんか別の事考えてるでしょう」
                 「自分のこと自己中だと思ってたけど、こーしろーくんも大概よねーって思ってたとこ」
                 「心外ですね」
                 「だったらもういい加減にそこから顔上げたらどうなの!」
                 太ももの間で顔中ベタベタにしながら舌を出し、ひたひたになったそこをまた舐める。
                 「失礼、思わず熱中してしまいました」
                 いつの間にか指に装着されているフィルムがかさりと音も立てない。オブラートに白い色がついているみたいな、何の変哲も無いフィルムがあの指に巻きついている。あの、あの、私の身体と頭の中をかき回すイジワルな指に。
                 嫌なのに。恥かしいのに。どうしてこんなに心臓が煩いの。どうして頬が熱くなるの。どうして……逃げられないの。
                 本当はこうやって苛められるのが好きなのかしら?そんな馬鹿な。だって、他の人にこんな事されたらきっと殴ってるし、その前に絶対嫌いになってる自信があるわ。
                 「では……入れますね」
                 ちゃんと見てますか?伏せがちに見える彼の降りた睫毛が見える。いつの間にかがっしりしている肩も、ぐちゃぐちゃにしちゃった赤い髪も、みんな好き。
                 「そんなに力を入れないで下さい、怖くありませんよ。ぼくの指です」
                 すこし低くなった優しい声も、甘え方を知らない不器用な性格も、ちょっと自虐的なトコも、やっかいな絶望癖も……愛してる。みんな光子郎くん、あなただから許してあげられる。
                 「……そんなにぬるぬるさせられると、入れにくいですよ?」
                 わざと意地悪言ってそれを許して欲しいなんて、そんなワガママなフリなんかに騙されてあげるもんですか。
                 くりくりと、私の表情を窺うように入れた指を中で動かし、目を見る。薄笑いなんかしたってダメ。
                 「きもちいいですか?」
                 もう恥かしがってなんかあげない。……ちゃんと言って、恥かしがり屋さん。

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                 「……ね、わたしも聞いていい?……私の中、きもちいい?」
                 少し指が止まった。
                 「……な、なにを言うんですか」
                 「指、気持ちよくない?私の中に入れるの、いや?」
                 「いっ嫌ならこんな事しませんよ!」
                 「じゃあ言って。光子郎くんの言葉で、ちゃんと言って。今私が欲しい言葉、わかるでしょう?」
                 甘ったるい呼び方をしない。身体の中に彼の指を封じ込めたまま、逃がさない。
                 目を見る。さっきまでの意地悪な本心とはまた違う彼の本心。それが聞きたい。
                 「言って。今、言ってくれなきゃ意味がないの」
                 揺らぐ胸の痛み。絡める指なんかじゃ許さない。深いキスなんかではぐらかしたらブッてやるわ。汗がにじんで背筋が張る。光子郎くんの一挙一動は緩慢で、渋い表情。
                 そしてゆっくり口が開かれた。
                 「愛してます。他の誰より、何より、ミミさんだけ。
                 ……すみません、陳腐な言葉で。でもこれ以上自分の頭の中に言葉が見つかりませんでした」
                 あいまいに笑う瞳を離さない。自信無さげに緩む手を離さない。
                 「ううん、それ以外にまだ光子郎くんが言いたい言葉があるはずよ。探して。」
                 言い淀む弱気な光子郎くんが肩を落とすのなんか、予想済み。
                 「――――――これを言ったら、だめなような気がするんです。……こわい。」
                 「いい。それが欲しいの。受け止めてあげる、だから――――――信じて」
                 例えどんな言葉でも。例えそれがひどい言葉でも。あなたの言葉なら、受け入れてみせる。
                 痛いほど握られた手が熱くなっていた。私はその手を握り返すしか出来ないけれど、この手は絶対に離さない。
                 「――――そばに――――ぼくのそばにいてください。――――――アメリカなんか、かえらないで……!」
                 嫉妬するのも嫌なんです、寂しくて苦しいのはもう嫌なんです、会える日を待ち望んでるのに、こうやってしか甘えられないなんて嫌なんです……こんなに愛してるのに、これが本当に愛なのか疑うのはもう嫌なんです……!
                 痛かった。
                 一つ一つの言葉に身を切り裂かれそうだと思った。

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                 痛みの海で一人居る彼の孤独と絶望は、他人である自分には理解なんてできないんだというのが解って悲しかった。共有できる言葉も感情もある。でもそれは所詮自分のもので、彼のものじゃない。孤独を肩代わりすることなんて出来ないのだ。
                 「寂しいから慰めて欲しいだけなんだって、そんな言い訳で納得したくないんです。
                 ミミさんの身体をおもちゃにしたり好き勝手に従わせたりすればするほどミミさんが帰った後で後悔ばかりだ。なのにしなければならないような気がして、そうしてないと頭がおかしくなっちゃうんじゃないかって、一人で馬鹿なこと決めて……
                 ぼくはダメだ……ぼくにミミさんとこんな事する資格なんてない……愛してるなんて……言葉ばっかりだ」
                 ねぇもしも、この繰り返す日々が苦痛だったらどうする?
                 愛を囁くことが苦痛だったらどうしたらいいの?
                 「……ごめんね、解ってあげられなくて」
                 凍りついたように硬い身体をぎゅっと抱きしめたい。でも今抱きしめるのは違う気がする。それはきっとママの仕事だわ。私は光子郎くんのママじゃない。手を引いてあげるなんてことは出来ないもの。だから我慢する。
                 「でも私、ちゃんとここに居るでしょ。光子郎くんの傍には居ないけど」
                 絡んでいない、自分の体重を支えていた手を持ち上げ、彼の胸を指した。
                 「私たちは離れているけど、世界のどこかに相手が生きてるって思うだけで勇気が湧いてくる」
                 吐き出された彼のヘドロを全部飲み込むなんて出来ないけれど、私はちゃんと覚えている。ヘドロを吐き出すあなたの苦しみを覚えておく。……きっと忘れない。
                 「背が低くて、すぐパソコン盾にする卑怯者で、意気地なしで、悪ふざけが止まらなくて、甘えたで、ほんとは幼稚で素直じゃなくて……そんな光子郎くんでも好きよ。
                 だから自分の事ダメなんて言わないで。ミミちゃんの自慢の彼氏なんだから。
                 あいしてる。あいしてる。あいしてる。何度でも言うわ、耳にタコが出来ちゃうくらい。そしたらそのタコを触って私を思い出して……そこに私は居る。」
                 そんで、私にもお揃いのタコをちょうだい。
                 指を開いて彼の胸の鼓動に触れた。
                 心臓はゆっくり、心地いい振動を私の手の平に伝えている。彼が生きている、その事実と共に。

                27
                 ぐっと涙が出るのを食いしばったのだろう。震える背中が愛しかった。
                 「やっぱり……ぼくは一生、ミミさんには敵わないと思います。どれだけ知識を増やしても、どんなに難しい言葉を覚えても、きっとあなたには手が届かない。
                 素直な心が羨ましいです。正直な言葉に憧れます。何も疑わすにぼくを信じてくれて、ほんとうに……うれしい」
                 途切れ途切れの言葉が、それ以上軋むことはなかった。
                 「あったり前じゃん!だって私は純真の使徒だ・も〜ん。だ・か・ら、敵うわけないのよ、こーしろーくん如きが!」
                 「……ご、如きって……」
                 「そのかわり私は知識じゃ敵わないわ。……だから私たち、一緒に居るのよ」
                 欠けてる部分は補えばいい。簡単なことではないけれど、私たちならきっと出来る。だって、選ばれたんですもの。この世界に生まれたってことは、そういうことだと思うから。
                 「愛してるわよ、こーしろーくん」
                 「――――――ぼくだって愛してます。……たぶん」
                 「こ、の、く、ちィー!?今余計な言葉を付け足したのはぁこの口なのぉ〜!?」
                 両ほっぺを掴んで本気で引っ張る私に、出そうになった涙も引っ込んだみたい。……まったく、世話の焼ける。
                 「あいしてます!あいしてます!いたい!いたいー!」
                 ぱっと手を離して、大げさに頬をさする光子郎くんの腕にキスをした。
                 「もう辛い時に平気な顔しないで。わかんないことは一緒に考えましょう。」
                 「……はい。」
                 やっと柔らかい顔で、光子郎くんが笑った。おかえり、私の大好きな光子郎くん。
                 「ところで」
                 「はい?」
                 「この指はいつまで私の中に入ってる気かしら」
                 封印されてたようやく生気の戻った手が、慌てて引き抜かれた。
                 「ひゃぁ!!……きゅ、きゅうに……!」
                 抗議の悲鳴を上げる私に、手の持ち主がぎぎぎ、とロボットみたいに首をこちらに向けて言った。
                 「……長居、しすぎたようです……」
                 少し折り曲がった中指には、ドロドロに解けてべろりとだらしなく垂れ下がった透明のフィルムのなれの果てがくっついていた。

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                 あっ、はっ……ううぁっ……いっいい……よぅ……!
                 ……ミミさんのおしり、えっちですね……
                 ばか、いやっ……あひっ……うわぁん……あっあっあっ、それ、だめ、すごい、いい
                 いいんですか?だめなんですか?
                 いや、いや、あっあっん、んぁっあ、あ、あぃぃぃ……い、いいぁー!
                 後ろからするの、そんなにいいんですか?
                 ばか、そんなの、きかないでよ!
                 だって、ぜんぜん、ちがう。いつもだったら、こんなに……
                 いやぁ……おっぱい、さわっちゃだめ……やめてぇ……!
                 嘘言っちゃダメですよ、見てください、鏡、顔、すごい、いやらしい……
                 やだぁうそうそうそうそ、鏡、みないで……かお、見えちゃう……
                 見えたらダメなんですか?そんなにヤラシイ顔してる自覚があるんですか?
                 もう!やだ!えっち!へんたい!ばか!
                 呂律が回らない。身体を押し付けられているパソコンデスクの上に置いてあるペン立てがガタガタうるさい。こんなにずんずんしたら、パソコンの中身に、良くないんじゃないの?
                 頭の中にぐるぐる渦巻いてるそんなどうでもいいことが一秒だって記憶に留まってくれない。
                 お尻にあたる光子郎くんの腰と、熱心に胸をいじくる両腕が、弾む彼の呼吸が、何もかもを許してくれない。
                 肘を置いている机で、後ろから私の身体をがんがん押し付けるように突き刺さしているこの人が、これからも平気な顔をしてメールを書いたり、勉強したり、居眠りしたりするのかと思うとなんだかヘンな気分になった。
                 まるで私が光子郎くんの日常を犯してるみたい。
                 ……なーんて、光子郎くんの変態が染っちゃったのかしら?
                 休みなく繰り返される甘い衝動がすこし速さを増す。私の中の彼はまだ膨張を続けている。
                 鏡の中の私はとても信じられないくらい、だらしない顔で笑っている。舌を出して、いやらしく涎が伸びた頬。玉の汗が光る額。早いリズムで喘ぐ開かれた唇。
                 そのどれも真っ赤で、今まで見たどんなエッチな本やビデオの中の人よりも、私の頭の奥を痺れさせた。
                 こんな顔を私にさせる光子郎くんの顔が……鏡の角度のせいで見られないのが残念だわ。

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                 「あっ……はぁ、はぁ、こし、持ち上がってます、よ」
                 「あっやっ!いっ……いく…っ!いく……」
                 「うぁ……、は、はぁ、は、はぁ……ミ、ミさんはすけべですね」
                 もう何度目だったか?そんなこと覚えてない。はしたない声上げるのに慣れちゃった責任、取ってくれるんでしょうね。
                 ゾクゾク全身を駆け回る快感。神経を侵してゆく艶めかしい満足感。腰が笑っている。こんなにしちゃって、私の身体をこんなにしちゃって。ひどい、ひどい。もうこれじゃ、あっち帰ったら絶対欲求不満だわ!私まだ中学生なのに!
                 ぶるぶるぶる。一気に開放される鈍い痙攣が脳味噌を壊してゆく。
                 あいしてる、あいしてる。彼の身体がそう言っている。快感で縛り付けるように、毒の実で惑わすように、羽をもがれてゆくみたい。
                 「こー、しろ、だって、なんかいも、だし、てるくせっに……あっいっ……うぁっ」
                 だらしなく開く口から粘着質の涎が垂れる。目に映る世界が滲んで歪んで、まるで夢の中。
                 「出しますよ、いっぱい、出します……はぁ、はぁ……うっかり屋さんが、ぼくを忘れないように……!」
                 はぁ、はぁ、はぁ。息切れの中、朦朧とした口調で光子郎くんがそう言って、また出した。
                 「……い、いったぁ……?」
                 「いっ……はぁ、はぁ、はぁ……い、いきました…ぁ…」
                 ヒクヒクと両方の身体が痙攣している。気を失いそう。汗と、精液と、唾液とゴムの匂いで頭が狂う。
                 身体の上に落ちてきた、熱っぽくて汗だくの光子郎くん。背中に手をやると、まるで雨にでも打たれたかのようにびしょ濡れだった。……お、お疲れ様……
                 よくよく見ると髪もびしょびしょ、顔も汗まみれでひどい姿。表情は憔悴しきってて、なんだか笑えた。
                 疲れたように閉じられた瞼になんとなく舌を這わせたら汗の味がして、それまでなんだか愛しかった。
                 「でも、ミミさんも大人になりたくないなんて思うんですね」
                 不意に光子郎くんがそんなことを呟いた。
                 「偉そうなこと言ってて、実はぼくも思ったことあります」
                 「やーだ、一緒じゃない。いついつ?」
                 私はなんだか嬉しくなってしまって、その先を促す。
                 「小学6年の夏休み、観覧車の中で」
                 声がいつの間にか変わっていた。
                 「本気で願いました。観覧車が止まらないかとか、空港がジャックされないかとか」
                 覆い被さっている光子郎くんの動悸はまだ静まってなんかいない。なのに声はすっかり大人びていて、そのアンバランスさが奇妙だった。
                 「でも今は観覧所が止まらなくてよかったし、飛行機がちゃんと飛んでよかったと思います。じゃなきゃミミさんに告白できなかったし、恋人にもなれなかった。
                 不思議ですね。あの時あんなに離れるのが怖かったのに。……いっぱいしたからでしょうか?
                 我ながら厚かましい大人になったものだと思います」
                 ははは、と自虐的に笑った声が消える前に私は言う。
                 「違うわ」
                 大人なんてまだ早いって言ったのは誰でしたっけ?
                 「こーしろーくんは男になったのよ」
                 驚いた顔をした彼は見開いた目を細め、私の唇に天国行きの長い長いキスをした。
                 きっとこのキスを忘れるのは至難の業だろうなと、思うような。

                 本当はこの後そのまま気を失うように寝ちゃってどえらい騒ぎになるんだけど、その話はまた今度。

                17:45 2006/08/24

                 


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