ミミと光子郎
ピースキーパー
「ほんとは僕、怖かったんですよ」
「何が?」
ミミは独り言のように呟く光子郎の背中から響く声に見ていた雑誌から顔を上げて訊ねた。
しかし光子郎は何も返事をせず、相変わらずキーボードを熱心に打っている。ミミはいつもの事に呆れる事もなくまた雑誌に目を落とした。
光子郎がパソコンを触っているとき、周りに全く興味も意識も示さなくなくなるのは今に始まったことではない。それについての議論はし尽くされ、折衷案として“ノートパソコンを机でなくテーブルに置き、邪魔さえしなければ何をしてもいい”という条約を結んでいた。
なのでミミは丸まりがちな光子郎の背中をリクライニング椅子代わりに雑誌を読んでいる。
ときどき口の中でぶつぶつと、ミミには理解できない機会言語やらニュースやらを無意識に唱えているのを聞いたりはする。だが、今日のそれは少し違った。活舌がはっきりしているし、なにより丁寧語だった。幾ら敬語が癖づいている光子郎だといっても独り言にまで使いはしない。
カタカタキーボードが叩かれる。小さな振動が光子郎の背を伝ってミミに感じられた。
「……ねえ、何が?」
ミミは雑誌に目を落としたままもう一度尋ねた。
それでも背中から声は聞こえなかった。
ただキーボードを打つ音が次第に小さく緩やかになり、やがて静まった。
ミミはそれを聞きながら、やはり黙っていた。
しばらく二人は沈黙し、小さく聞こえるノートパソコンのファンが回る音だけが部屋を埋め尽くす。
もう一度訊ねるのが何故か憚れるような冷たく静かな雰囲気が流れた。背中の向こう側で息づいている光子郎の身が少し固くなっているのではないだろうかとミミは振り向こうとした、が、結局は行動に移さなかった。
「なにかきいてほしい?それとも無視した方がいい?」
静かに伏せがちの睫毛のまま、ミミは囁いた。それは本当に小さく静かな声で、もしこの部屋に誰かが居ても光子郎にしか聞こえなかっただろう。
「……怖かった。世界が滅びるより怖かったんです、自分が」
光子郎が一度言葉を切り、やっとの思いで絞り出すように声を上げた。
「あの世界に居ないことが」
少女はその言葉に多少は動揺したけれど、元々そんなことは気付いていた。彼が誰よりもあの世界に固執していることなど。
「太一さんとヤマトさんだけがあの世界に入って、自分にはもうあの世界へ行く力は失われてしまったのかと」
ミミには薄々わかっている。光子郎の拘りやすい性質があまり良くない方向へ向く事が容易いことも、いま正に転がらんとしている真っ最中だということも。
「あんなに大変な時だったのに、僕はそんなことを考えていました。それをふと思い出して、たまらない気持ちで……」
堰を切ったように話す光子郎の背中は熱を持っていて、ミミは彼が落ち込んだり恥かしくなると体温が上がる事を経験的に知っていたのでふと光子郎に気付かれないように溜息をついた。
「不思議ですね、一人の時はこんなこと思い出しもしなかったのに。あなたと居ると何故か嫌な事ばかり思い出します……悪気はないんですが」
は、と気付いたのだろう。光子郎は上目遣いの声で彼女の機嫌を伺った。
「……怒りますか?」
ミミはその態度に多少言いたい事はあったが言わなかった。
「別に。普通じゃないの、人と居ると甘えたくなるなんて」
出来るだけ普通の声を心がけ、彼女が淡々と返事を返す。
「……甘えたいんですか僕は」
「そうよ。思い出して怖くなるなんて良くある事じゃない。怖いのを完全に我慢できる人間が居るわけないんだから」
いつの間にか雑誌をめくる手も、写真を追う目も、どうでも良さそうな声も、止まっていた。
「いや、でも怖さの種類が」
光子郎の反論。
「でも怖いっていうのは同じでしょ」
ミミの確認。
「いやまぁ……そうですか?」
「でも面白いわ。光子郎くんでも弱気になったりするのね」
「……どういう意味ですか」
「いつもポーカーフェイスで涼しい顔してるから、なんでも平気なのかと思っちゃった」
「ただの小学生ですよ僕は」
「でも冷静沈着、有能参謀の泉光子郎だわ」
「――――――誉め言葉にしては辛辣ですね。7点です。」
「どーせ100点満点なんでしょ、そのテスト」
「そうです」
「やーん怒ってるゥ」
雑誌を軽く投げ出してミミは光子郎の首に腕ごと身体を巻きつけ、ちくちくの赤いパイナップル頭に頬を摺り寄せた。
「機嫌直してー」
「……別に怒ってません」
「うそうそ、怒ってるー」
光子郎の小さな背中を抱きしめて、ミミは言った。
「デジタルワールドばっかりじゃなくって、ミミも構ってくんなきゃまたいつかみたいに泣いちゃうんだから」
言ってしまって、まるで自分はディアボロモンのようだ、とミミは思った。
11:30 2006/07/03
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